厭世思考

自分の厭世観、思考記録メモ

ミルクパズルを埋めるように2016~2017年の自分を考察する

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ミルクパズル宜しく、自分の欠けているピースや既に埋められているピースも、ピースの位置の正誤も、自分という全体像(パズルの完成形)も、把握は極めて困難だと思った。

しかしながら、自分を今より理解して自分たらしめるためにはこのミルクパズルを解く必要がある。
2017年の末、それは去年の暮れとは遥かに違う。自分は、もう1年前の自分とは違うということがはっきり解るが、それは当てはめたピースが増えたからだろうと思う。

ミルクパズル…?

ミルクパズルとは真っ白でどこにピースを配置するのか、角くらいしか判らないような地獄パズルのことだ。

ここで比喩として扱うミルクパズルとは、自分という人間そのもの、自分の枠組み、本質のこと。自分という人間の大きさも形もピースの数も位置も判らないので、ミルクパズルに例えてみた。

1つ注意したいのは、「必ず解ける」ということだ。ミルクパズルは構造上の欠陥や製作者の意地悪で解けなくなっているわけじゃない。

「解こうと思えば解ける」。これが肝要だと思う。

※最初はもっとミルクパズルに即した記事だったが途中から去年と今年を振り返る感じになった

何を求めて解こうと思うのか

自分を知りたい。自分が分からないと、他人と深く関わることはおろか、先には進めないことに気づいたから。

「一度立ち止まる」ことが大切だと、社会人1年めの時にふと思った。忙しく働いて朝の4時まで残業する上司や先輩たちは立ち止まることを知らず、効率的な方法を見直したり交渉の在り方を再考する余地を持たずにただ突き進んでいた。愚かしく見えた。

「一度、たった5分でも止まって考えてみればいいのに」

その1つのことが4年経った今でも思い起こされる。人は、ただ普通に生きて何も考えずに日々の雑事や仕事をこなしていると自分を省みる機会に乏しくなる。
だから意図的に、恣意的に自ら立ち止まって振り返るコマンドを選びとらないといけない。それを忘れて適当に突き進んでもいいけど、後からもう一回考えることを全くしないのでは、この短い生きている時間内にはミルクパズルの完成度が上がらない=自分のことが全く分からない。

自分のことが分からなければ大きく先には進めないだろう。自分のことを知らない人間が目標を定めたり未来への展望を持つことは出来ないからだ。

どんな一歩を踏み出すにも、まず自分の中に深く潜ってピースを拾ってくる必要があると思う。

このミルクパズルに完成はない

おそらく生きている間に「完成だ!」と言えることはないだろう。逆に死ぬ時、強制的に完成させられると言い換えてもいい。

自己実現が完成と言えるかもしれないが、どんな自己実現をしてもその先がおそらく出現する。幸せな状態を得ても次の欲や問題が現れるのが常だと思われるから。

完成を宣言してしまったら自ら先に進むことはない。それは死んだと同義、だろう。

何もせずにピースは埋まらない

基本的に自分は自分のために動いていないと気が済まない。何もしないということが出来ないし、他人のためだけにという動機を持つことが難しい。(相手を愛していたり大切に思っていればもちろん相手のために何かすることはあるが、それもひいては自分のため…の中に入ってくると思う)

これは昔からその片鱗があったのだが最近は特にそう思っている。
学生の頃はまだ普通の心があったので友人関係にある者を多少は助けたりする行動も見受けられたものの、例えば誕生日をみんなで祝っている時などは遠くで「へぇ」と思っていたし、マンガの貸し借りなども仲間内でしている間、自分はしなかった。

今はもはやほぼ誰に対しても何かしらの世話や贈り物などをする気は起きない(一部を除く)。
勝手に自分で生きてくれ、という感じだ。まあ大人なので当たり前かもしれない。しかし自分にもそれは当てはまる。その責任だけは自分自身で持たなければならない。何もせずに勝手にこの人生のピースは埋まらず穴だけが残るので、自分で埋める意思(プレイヤーコマンド)だけは確実にこの手から離すわけにはいかない。

さて、下記はぶっちゃけただの振り返り、個人の日記なので興味がなければここでお別れです。

2016年はピース自体を作る年だった

去年は破壊的な年で、自身のピースを埋める土台になったと思う。

3社めの仕事に受かり年明けから始めるも、仕事内容というよりは人間関係に辟易して半年くらいで辞めた。

嫌がらせを受けたわけではない。仕事が出来なかったわけでもない。ただ、好きでもない人間と仲良いフリをして関わるその毎日が心の底から苦痛になって辞めた。人間嫌いにはちょっとした建前も苦痛になってしまうもの。

辞める際にLINEを交換した人も何人かいたが、辞めて一週間くらいしない内に全て削除した。今後も会おうと言われていたが、それが嫌だから辞めたわけで、仕事で関わったくらいで友人と思われるのは正直困ってしまう。本人たちは悪い人物ではなかったが、自分はどうしても嫌だった。

その後は基本的に自宅に引きこもり、ちょっとした小商いやネットビジネスで取るに足らない小金を稼ぎつつ貯金を切り崩して暮らした。幸い同居人がいたので死ぬ心配をする必要まではなかったが、その同居人の存在すらも凄まじい重力のかかる劣等感で向き合えなくなる鬱模様。

とにかく当時は情緒不安定な自分が考えうる限りの金儲けを実行してみたものの費用対効果が悪く、定期的な収入に繋がらなかったため酷く嫌気が差して、「自分はなんて無能なんだ!!!!!殺してやりたい!!!!!」と2日おきくらいに布団にこもって泣いては寝るのを繰り返した。あまり誰も見ていないツイッターにも書き込みが増え、自身をとにかく呪って、あるいは気持ちを言語化して自身を対象化するしかなかった。

そこに、同じく副収入を得ようと努力していた同居人がエロゲ作りで5~6万をさらっと(と言っても何ヶ月か開発に苦労はしていたのだが)稼いできた。

「初任給をもらった時より嬉しい」だの「この札束でビンタして」だのはしゃいで言われた後に自身の愚かさ無能さと相手のあまりの無神経さに耐えきれず号泣したため、家は荒れた。

2016年は正直あまりいい年とは言いがたかった。仕事自体はラクだったからそれなりに長く続けるつもりだったのに、人前に出ると誰かから大きく執着を受ける。いつもそうだ。目立つようなことはしていないのだが、誰かがどうしても「自分にいい顔をしてくれる」と勘違いして寄ってくる。違う。全て過剰な建前だ。仕事関係で円滑にやっておかないと後がめんどくさいと思ったからそうしただけ。個人的に仲良くする気はない。しかしこの関係づくりはとても億劫だ。

それが嫌で家にこもるようになった。自然な流れだ。

そう、「家にこもって誰にも会わずに暮らすことが自分にとって一番平穏な選択肢」だと気づけるようになったのだ。

2017年は作ったピースをはめていく年だった

その後2017年をなんとか迎えたが、2~3ヶ月は収入が定着せず無能感・劣等感から情緒不安定な日々が続いた。貯金も尽きかけた頃にこのままではまずいと思い、クラウドワークスにて継続的な在宅ワークを見つけることに成功。
しかし半年ぶりの仕事でまたも情緒不安定が加速し、誰かに求められたいと願うことによって逆に突き放すような態度をとってしまい、当時親しかった友人に愛想を尽かされ離れていかれた。

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その後は普通に仕事をこなした。嫌な思いも多少あったが、はっきり言って家で仕事ができ、しかも自分が出す生活費+税金程度なら賄えるというのは崩れかけていた非常に自尊心を助けた。(自分が出す生活費は少ないので自立したとは言えない)

失った友人については未練がしばらく残ったが、それも仕事と自分の今後に集中する内にだんだん薄れていった。

去年の秋冬から同居人に勧められて始めた筋トレも若干軌道に乗ってきたこともあり、6~7月あたりはあまり何も考えずに過ごせた。自信が少し取り戻せたため、なんとか旅行にも行けた。

思えばそのあたりは本当に空っぽに生きていられたという意味では幸せだったのかもしれない。自分のやりたいことだけひたすらに考えていた。あれだけ悲しみにまみれていたツイッターもこの期間だけは全く更新しなかったくらい、淋しさの欠片もなく充実していた。

しかし8月、自分の劣等感とプライドを切り裂く出来事が起こった。相手に悪気があったとは言わないが、努力を水泡に帰すような無神経な態度を目上の人間にとられてもこちらは笑って聞き流すだけという事態に出会うとは思わなかったので非常に苛立った。

そのストレスが劣等感を喚起したため家のソファに段ボールを叩きつけ、久々に真夜中のツイッターに書き込んだ。

戻る必要なんかなかったはずなのに、僕はまたツイッターに引き戻されてしまった。

その辺りから偶然興味を持ってツイッターで話しかけてくれた人がいて、以後定期的に話をしたり会ったりするようになった。

自分にとってその人と話すようになったことは青天の霹靂で、予想外中の予想外だった。普通だったら絶対出会うことのなかったはずの、余りにも遠い存在。
今こうして話すようになってもやはり遠く感じている。きっとこれからもそうだろう。遠いからこそ横目で見つめ続けてしまうのだろうけど。

しかし出会わなければ、今年の自分は何も生み出せなかったと言っていい。自分と違いすぎる人の影響は絶大だったと思う。今年の後半は恒星の周りを公転していたと言えなくもない。波長としては多少合っていた(から交流出来た)のだろうが、知識も思想も感じ方も全然別を向いていることを常に思い知らされる。こちらがあまり役に立てていなくて申し訳ないが、交流してくれたことに感謝しているのは間違いない。

そして年末、もう今年が終わってしまう。今年は何か大きなことはもう起きないだろうが、今年は本当にいい年だったと言い切れる。
大きい収穫とは言わないが、小さな努力もそれなりに実った。要らないものも捨てた。理想や目標も考え続けたおかげで少し定まってきた。諦めかけていた人間関係も、多少は。。

2018年はピースを作れる/埋められるか?

来年はおそらく今以上に自分を見つめ続けることが必要になると思う。やりたいことが一応形を成してきたので、出来れば小さくてもいいから結果を出してその部分のピースだけでも埋めてみたい。

すると、多分淋しさとの闘いになるだろう。誰もいなくても孤独に戦っていけるか。いかなくてはならない。

ああ、弱音ばかり吐いている自分は嫌だな。格好がつかない。格好つけていたいと毎日思うが、冬季性鬱?なのか、若干冬は弱い。夏になればきっとまた…と信じていいのだろうか。

自分をある意味では信じていないと匍匐前進にもならない。例え自分が神から最初に与えられたピースが人間嫌いの孤独野郎だったとしても、その後のピースは自分で作れる。

完成図がない以上、自分でピースを当てはめて自分というミルクパズルを形づくる以外にないのだ。

来年もそうして、たった1つのピースだとしても探し求めていくだろう。