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厭世思考

人嫌いの厭世観、思考をまとめたブログ

「人は欠損に恋をする(高須院長)」―欠けた人は美しい

ツイッターもやってないし、真偽とか内容の詳細とかまでは知らない。でも、高須クリニック高須克弥院長のこの言葉には正直胸を打たれた。

news.livedoor.com

哲学を感じるストレートで美しい言葉

西原が必死に(ときには泣きながら)懇願をしても、高須院長は絶対に彼女にメスを入れないのだ。

高須院長ほどの腕を持つ整形外科医なら、愛する女性をより美しくしてあげることは簡単なはず。しかも高須院長は自身に手術を施し美容整形を試しているのは、有名な話だ。なのになぜ、ここまで頑なに西原の整形だけを嫌がるのか?その理由について、こう語ったという。

《いいですかりえこさん、人は欠損に恋をするんです。黄金率でないもの、弱いもの、足りてないもの、人はそれを見た時、本能で補ってあげようとする。その弱さや未熟さを自分だけが理解していると思う。欠損の理解者になるのです

高須克弥院長が恋人を頑なに整形しない理由 SNSで反響を呼ぶ - ライブドアニュース

自分も欠けてる人が好き

昔からそうだった。好きになる人なる人、みんな自身のコンプレックスを抱え込んで寂しそうだった。

そういう人の理解者になりたかったし、自分も理解してほしかった。

そして今も。

同居人がいるのだが、昔の方が好きだったとふとした瞬間に思うのは、その人の翳りが既に失われつつあるからだろうと、この記事を読んで再度確認した。

好きになって一緒に住んだ。今もそうであることには違いない。

しかし欠損が本人の力で補われていくにつれ、魅力も少しずつ少しずつ失われてしまった。残念ではあるが、違う形でまた好きになれるだろうと思う。

欠けている人全般に愛情を示せるわけではない。誰にでもツイッターで噛み付いたり、他人の気持ちなんか分かるもんかとただ突っぱねている人物とコミュニケーションは取れない。

考えに考え抜いて、傷ついても傷ついても自己と向き合い続けて、「自分は他者と上手くやっていくことは難しいけれども、せめて他者に傷つけられたからと言って同じような真似をしない」「ツイッターでガス抜きはするけれども、そのかわりその行為を通して問題の本質を探ったり反面教師として記憶する」など、思索を巡らせている人が好きなのだ。

現代はスマート・オシャレ・完璧さに価値を置きすぎ

スマート。オシャレ。ナチュラルメイク。シンプル。ミニマル。コンパクト。ソツがない。シュッとしている。アップルの美学。

余計なものを削ぎ落とした「完璧な」姿こそが美しい、それも然り。

しかし余計なものを背負い込んでしまったが故に深みを増した人間はシンプルとは違う。欠けていてちぐはぐだ。パラメータのバランスがおかしい。過剰に他者を避ける。異常と呼ばれる性癖を持ってしまう。でも、違った意味で魅力的だ。しかし健常でオシャレではないので誰も価値を置かない。
みな外見至上主義、情緒や感受性を重んじるのはオシャレなインスタ写真の中だけだろう。そういう文学的な価値観は昨今あまりない。

文学的といえば、太宰治夏目漱石などは余計なものを背負い込んでしまったが故に深みを増した人間だろうと思うが、彼らの小説はそのせいでむしろ逆に、シンプルでストレートに感じる。それは素朴感であり、情緒であり、透明感だ。

(今ももちろん素晴らしい小説を書く作家はいるのだが、技巧に満ち溢れていてどうもゴチャゴチャしている気がする。素朴なものはもうウケないのだろう)

外見的に分かりやすく純粋めいたもの、清純派は持て囃されるが、ゴチャゴチャになりすぎて一周回って、本質的に純粋で透明な人は空気として扱われる。そんな人、もういないだけなのかもしれないが…

願わくば自分も欠けたままで居たい

満たされてしまえば、幸福だろう。幸福は欲しい。
しかし既にこの心も頭も、幸福を感じるアンテナを育てることに失敗している。
どんな状況でも何か不幸と結びつけてしまう器用な指先を切り落とすことは出来ないので、このまま生きてみるつもりだ。

欠けたままで結構。

誰も理解してくれなくても仕方ない。

しかしこれが自分の哲学と定めて、くだらない子どものおもちゃでも宝として大切に守ることにした。