厭世思考

人嫌いの厭世観、思考をまとめたブログ

人間嫌いはどう生きればいいのか

自分にとって、人間嫌いは今に始まったことではない。
恐らく機能不全家庭にて偶発的に育まれてしまったであろう、他者への嫌悪感。

しかしこれは、ストレートに他者への憎悪が自分の中に反映されて起こるものではない。

嫌いで惨めなこんな自分を、他人に見られたくないのだ。
こんな劣等種の自分では、優等種である他人の思想もやり方も素直に受け入れることはできないのだ。
他人の思想は自分と違いすぎて、誰も理解してくれそうにないから孤独を選ぶのだ。

全て自分に原因があることは、もはや疑い得ない。

他人の影響が自分には大きすぎる

出来た例がない。自分は自分だとアイデンティティを確固として保っていたことが恐らくない。

周りを見渡して、他人が自分と違い、自分が他人と違い、つまり自分は自分でしかあり得ないそういう個体であるということは分かる。それはつまりアイデンティティの獲得と言える、しかし。

しかし他人の考えを読んで読んで読み尽くしてその行動に合わせて暮らすという、「世界への最適化」を随時行ってきたという前提がある。「自分は自分だから、自分が決めた物差し通りにきっちり行動していこう!」とはならなかったのである。

自分を押し込めること、それが人間として「社会的に」生きるための術であり知恵だった。
別に我儘を通したかったというわけではない。ただ、他人に影響されては常々小さな選択を自分の意思とは違う方向に誘導されてしまっていたことが問題なのだ。

他人からの影響は、自分にとっては凄まじい。同調圧力なんて、かけてきた相手のことなんか気にしなければ最低限で済むはずなのだ。本来は。

しかしもう無意識のレベルで、他人からの影響をアンテナで受信するとほぼ相手の期待通りの行動を取ってしまう。

他人。リアルの人間関係も、ネットの記事も、テレビもツイッターも何もかもを指す。それら全てが自分に何かしらの影響を与えてしまう。

結果、どうすれば風前の灯となった自分の意思を守れるか?

何も自分に入れないことだ。
友達は必要な人物のみ残し、不要な情報は見ず、ムダな旅行も行かない。

…旅行は行くこともあるが、もう殆ど限界に近いキャパシティを溢れさせないためには、人間嫌いになるのは当然の結果だ。

自分と他人の比較を止めることが出来ない

他人は努力しており、結果も出している。自分は努力が少なく、結果も出ていない。
それが自分の中の、世界に対する前提だ。

もちろん嘘八百である。努力してないヤツなんかごまんといるし、自分が一切なんの結果も出していなければ会社勤めの経歴なんかない。

それが全くの偽だと知っていても、そう思わざるをえない。既にその考え方に理由や動機すらない。自分にとって、世界はそういうものであるということになっているのだ。

ところで、世界とは何か。

世界とは自分以外の全てである?否、世界とは自分の中全てである。
みたいな話をどこかの哲学書で読んだのだが、どうやらその通りのようだ。

物理的に言えば世界は「自分以外の全てであり、自分がいなくても勝手に廻っていくもの」だが、哲学・精神的に説明すれば「自分という主観フィルターを通して視た事象・概念全て」ということになる。

自分が死んでしまえば、世界が本当に存在するかどうかは判らなくなってしまう。その意味で、世界は自分の中にある全てと言っていい。

自分の見方が変われば世界に対する考え方が変わってしまう。そのくらい、世界というものは曖昧らしい。

そういう前提の下に考えると、自分が世界に対して歪んだ見方をしているのも別段おかしいことではない。
他人と自分の比較を止めないこの脳は、世界に対してフィルターとバイアスをかけて自分の何かを保とうとしているのだろう。

比較して鬱になり、落ち込み、それでも最終的に何か行動を始めようとする。それが恐らくこの脳が保とうとしている自分の意思の部分なのかな…と勝手に推測している。

人間嫌いにはニーチェの超人思想が有効?

最近、哲学書を読んだ。にわかでも読めるから本は偉大なのだろう。
(ただし、本を読むのは有用だと知ってもなお未だ好きになれない)

その中で、いま特に沁みているのがニーチェの超人思想だ。

「神は死んだ」でおなじみのニーチェ氏が言うには、「宗教や道徳は、元々歴史上で弱者が強者に精神的に勝つために生み出した概念だったが、その概念は滅びつつある。つまり、神は死んだことになる。ここで、一度人間の根源である強さや欲望を求めて生きる超人という概念を目指していくのはどうか」ということらしい。

超人になれるかどうかではなく、強くなりたいなら・賢くなりたいなら・ああなりたいなら、それに近づくべく努力を惜しまない生き方。それが根源的な欲求に基づいて生きるという超人思想である。

他人に対する配慮を出来る限り排除して生きようとしている自分は、その代わり自分の欲望に対する努力を増やさなければならない。これらは反比例の関係であるのが望ましいのだ。

もちろん、反社会的な目的に使うわけではない。しかし生物として強くなりたい、…では強さとは何か?

人間としての強さは、物理的なものだけでは測れないと言える。
筋肉をつけたり痩せたり整形して見た目を整えるのも、他を圧するのに重要といえば重要である。
だが人間は知能を高く持った生き物。つまり知能を発達させることも強さの一つということになる。学問を極めること、発明すること、起業して社会的価値を生み出すこと、クリエイターとして同人誌や芸術を残すこと。これら全てが努力のもとに成り立っており、自身が到達したいと思い行動したから、なるべくしてそうなった。

そして最終的に、その価値を測れるのは自身でしかない。価値は満足度と言ってもいい。世界が賞賛してくれても、自身が満足していなければ意味がない。

非常に多くの金・大きな名誉は満足度を代替するのにカッチリとハマる指標なので誰もが目指すところとなっているが、本質は恐らくそこではない。

自身にとって、奥さんと慎ましく暮らすのが最大の満足・欲求なのであればそれを最終目標に設定すればよく、そこに至るまでに努力を惜しまなければその姿勢は超人と言える。

「そんなの一部の脳筋社長とかしかできねーよ」

そうだろうか。人間嫌いは超人を目指すのがお似合いだろう。社会でなあなあに馴れ合ってそれなりにやっていくことが出来ない、人間嫌いには。

おわりに

終わりにはどうせ独り。生きている間も本質的には独り。誰と住んでいても、どれだけ友人がいても、人は独り。

みんな目を逸らしているけど、死ぬということだけが真実だ。

そんな残酷な運命に晒されている中。
数値目標とか、そういう論理的な目標は大切かもしれない。しかし人間嫌いが達成すべき目標は、そうカンタンに物差しで測れる類のものではないのだ。

大局的に自分と世界を見渡し、最適化を繰り返し、好い生き方を模索する。考え甲斐のあるテーマだと思うが、いかがだろうか。

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↑自分が読んだ哲学書です。