厭世思考

人嫌いの厭世観、思考をまとめたブログ

データは活用するものであって自己否認条件ではない

データ。

最近特に有用性が喧伝されているビッグデータやら実験の研究結果やらいろんなデータがあるが、そのデータを皆さんはどう扱っているだろうか。

「このデータにあるような理想像と自分は違っている。自分は人より劣る環境にいるのだ」と思う材料にしていないだろうか?

自分はそういう認知の歪み傾向があると今日気づいたので、書いてみる。

研究結果が自分を責める

例えば、太陽光に当たるとビタミンDが生成されるため記憶力や思考力がアップするという研究結果があるらしい。

ここではその研究結果の是非はともかく、とりあえず結果は正しいという前提で話を勧めたい。

と言っても現代人、特に女性であればデスクワークも多いもの。
残業などしようものなら、毎日太陽に当たるヒマなどないに等しい。

そこで先程のようなデータと出会えば、普通は「じゃあ太陽に当たれるように昼食は外でとろう」とか「弁当食った後に散歩でも行くか」くらいに活用するだろう。

しかし、「太陽に当たらなきゃ記憶力や思考力が上がらない!?営業の奴らや他の業種のヤツは毎日太陽光に当たりながら、確かに仕事を円滑に進めている。。こんなの遅れをとりまくっているに決まっている!!!でも自分の業務では日光に当たるなんてムリだ、クソ!」と自分を責めてしまうケースがあるのでは?という話。

あるのでは?というか自分がそれなわけだが。

データを活用する方に向かう?

向かえれば話は早いわけだが、そもそも精神的にカクンと落ちてしまっているタイプの人種は「活用」「行動を追加する」といった類のことが苦手だ。

むしろ「やらなきゃいけないタスクが増えてしんどい」ということになる。そして普通の人がどうして朝活やらヨガやらで余暇をものすごい勢いで埋めて楽しんでいくのかさっぱり解らない。

▼読書についても同様の気持ちになる。 

自分の生活や状態を改善したい気持ちはあるものの、データや情報を見つければ必ず行動を伴わねばならない。

それがスッと出来ない自分を責めるだけではなく、何故かそれがスッと出来る他者にまで思いが至る。「このデータを活用して上手く生きている他者」を想定し始めると更に三段階ほどテンションが下がる。

データとの付き合い方

この情報だらけの時代ではこの記事は自戒も自戒、落ち着いて考えねばならないテーマの1つだ。

まず、データはデータであり、単なる物理観測値である。それは自分の状態を測る物差しではないのだ。他者がそのデータが示す理想像に当てはまっているとは限らないし、仮に当てはまっていたとしてもそれは自然の摂理レベルの有りようで仕方ないことなので、自分の意識内にその仮想敵人種を存在させないようにしたい。

そもそも「ある条件に当てはまる人が0」という事象を証明することは恐らく出来ない。(回答していない可能性は必ずあるので)

つまり、どんなデータを持ってこられても、自分がそこに当てはまらないからといって即「自己否認条件」として扱うべきではない。

基本的に、世に示されるデータというのは危険性を示唆するか有用性を提示するかのどちらかの目的で表に出されている。

有用性というのは、そこに示されている情報を実践したり取り入れたりすることで「自分の何かがよくなる、改善される」効果を見込めるということである。

有用な情報を手に入れたのに、「当てはまらない(自分はダメだ、他に比べて出来ない)」という側面のみを捕まえてしまうのは本末転倒。

ただし、こういう考えに至る人は情報が示す行動を最終的に実行できないメンタリティを持っていることは間違いないと思うので、やはりどこかで自分を責めるステップを踏まざるを得ない部分はあるのだろう。

孤独になるのが一番

孤独は怖いものだが、自分は一番の味方。

他者を脳内に存在させることが恐らく一番の障害になっているのではないだろうか、と自分の思考を眺めて思う。

太陽光を浴びられる環境の奴はいるが、それに比べればやっぱり自分の環境は劣るが、そんな奴は放っておけ。

自分は日射量が一番多い時間だけカーテンを開けることにする。それでいいのだ。会社でそれが難しいなら、休憩時間に外へ出る。それでいい。

メンタルがどこか崩れていて認知の歪みが生じている時、他人主体に生きているなと思い知らされる。自分をダメだと思うのは、他人との比較が大前提になっているからだ。

完全にそれを止めることは出来ないのだろうが、もう無理やりにでも足を踏み出すしか、意識的に前へ這いずるしかない。

データは人ではない。あなたを批判してきたり、測ったりするものでもない。

じっと見据えて、手をつないでやるといいと思います。