厭世思考

自分の厭世観、思考記録メモ

とりとめのない雑記

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基本的に、1つのテーマについて1つのエントリを起こすようにしている。

でも今日は趣向を変えて、思い浮かんだことをおもちゃ箱に放り投げてみることにする。

掘り下げたくなった時に別エントリを起こすことにしよう。

人を「死んだことにする」こと、あるいは「殺す」こと

嫌いな人間や逆に好きだった人間、全くどうでもよくなった人間。
生きていれば様々な人間に出会い、そして関係と距離が自然と決まっていく。
ある一定の条件を満たした対象に対して取る心的行動の1つに、「あいつは死んだことにしよう」がある。そしてもう1つ、「あいつを殺そう」。
もちろんあくまで脳内での話なので、その点は誤解なきよう。

あいつは死んだことにしよう

なぜ死んだことにしようと思うのか?死=無と考えれば、対象のことを思い出すのが苦痛だから自分の主観世界から消してしまいたいということだろう。

  • 対象がとても好きだった
  • 対象が嫌いで仕方ない
  • 対象が正直どうでもいい

「死んだことにする」理由は、大別するとこの3つではないだろうか。

「どうでもいい人も?」そうだ。どうでもいい人は意図的に死んだことにするまでもなく勝手に死んでいったと比喩していい。

対象が現実世界で思い通りにならない時、同じ思い通りにならない状態でも相手を若干こき下ろす、あるいはむしろ雲の上の存在に置いてしまう、とにかく手の届かないところに行ってしまったのだから「仕方ない」と自分を納得させんがために「死んだことにする」のだろう。

仏さんのことは誰も触れてはならない禁忌。忘れてしまうために死んだことにする。死んだ人のことは、諦めがつくものだから。

あいつを殺そう

「殺す」と「死んだ」は違う。「殺す」は間違いなく自分で手を下す必要がある。そして大概憎しみを含んでいる。好きな相手を殺す人も、最後は憎しみで殺しているように思う。

自分が個人的に今日思ったこと。それは、「自分を思い出にされるくらいなら相手を(脳内で)殺そう」ということ。

思い出にされたくらいで大した憎しみが生まれるわけではないのだが、「思い出にされる」というのもある意味「殺されている」のと同義なので、こちらも殺す権利が有ろうということだ。

そもそも「思い出にされる」とは、相手はいま現在の自分を見ているわけではない。過去の自分を主観的記憶の中から呼び出しているだけだし、その記憶が事実と反して美化されていたり汚泥処理されていることもあるだろう。

悲しいことだが、相手はもう自分の存在を思い出日記帳のアーカイブホログラムコンテンツとしてハードディスクに記録しているだけなのだ。そこには実存している自分は居ない=殺された後の自分だけが居る。

そんな幽霊とすら呼べるものにされたことが分かった時点で、自分には悲しみを抑えきって「それはあなたの自由です」と告げることは出来ない。

悪はいつも深い悲しみから生まれるものだと自分は思っているが、その通り。悪人になり、そいつを殺すしか悲しみを処理する術はもはやなくなる。言い換えれば、「殺さないで欲しかった」という思いの現れだ。

そしてもう1つ「死んだと思い込む」こととの違いがある。

せっかく殺しても、殺した人間のことを綺麗に忘れられるとは限らないということだ。ずっと覚えていなければならない呪いにかかるかもしれないが、それでも元気に生かすわけにはいかないやむにやまれぬ苦しい事情。

…まあ、こんなことを考えてしまうのは自分だけかもしれないが。

遮音性の高いイヤホンありがとう

雑音はイヤホンでさよなら

自分は雑音という雑音が全て嫌いで、基本的に自宅でも外でもiPodが手放せない。

同居人がドアをバタンと乱暴に閉めるのも毎度気に食わないので引き戸には緩衝材を付けたし、近所に小学校があるため下校時間は苦痛だ。

しかしたった良品イヤホン1つでそれが万事解決。耳栓と兼ねられるのもいい。自分が使っているのは下記、4000円程度で買える。

大学生の頃に散々調べてPHILIPSのイヤホンを買い、壊れた後はSENNHEISERを買ってみたもののすぐに壊れるわ修理はしてくれないわで改めてPHILIPSの素晴らしさに惚れ込み、下記にした。

PHILIPSの何がいいって音質もいいし遮音性もいいし、パーツが多少壊れても外装をアロンアルファでつければいいだけで、今のところ1年経ってもコードは切れてない。

 

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音楽はトリップ剤

さて、雑音とはすこしズレるが、音楽の力たるやすごいと常々思うのは、自分の気分に合わせて曲を変えるだけでなく音楽が自分の気分を決める/深めてしまうところ。

ドラえもんでも「音楽には力があってテレビでもムードを決めるのにBGMが使われているだろ?じゃあこのムード出る音楽を奏でるひみつ道具でしずかちゃんのハートをゲットだ」みたいな回があった。

耳を音楽でいっぱいにしながら誰にも見せないような文章や絵などを描いたり筋トレしていると、没入感とトランス感が発生してどこまでも堕ちていけるような気がする。その間、自分は多少何かを演じていることもあるが、それは外では決して見せられないむしろ自分本来の願望をささやかながら体現していると言える。

音楽には力があるが、絵には?

絵を描くのだが、常々「絵には音楽以上の力が在るだろうか」と思うことがある。絵が好きな人ならあると即答するのだろうし、自分もないとはもちろん思っていないが、音楽が持つ支配力ほど…というのは難しい気がしている。

絵は、音楽ほど毎秒自分を支配してはくれない。これは物理的な問題で、聴覚を使いながら他の作業は出来ても、視覚はおよそ1点にしか集中させることが出来ないためだ。それに、その絵がない場所でずっと絵を思い出し続けるというのも難しい。
スマホやPCの壁紙にすればある程度は支配力を保てるものの、「作業用BGM」という言葉があるのに対し「作業用イラスト」はないので、やはりそういうことではないか。

また、好きな絵を購入して壁に飾ったりスマホケースとして身近に置いても、飽きてくるのではないかという問題もある。音楽も飽きるものは飽きるだろうが、意外とリピートしてずっと聴いていられたり、気分や思い出によって突然呼び起こされたりすることもある。

突然呼び起こされたりというのは、先程の「ムード・気持ちに連動する」という性質によるものだろうか。絵もある感情を想起させるものだが、絵には変化がない。見るたびにある感情を想起させることは出来ても、その絵を見ていない場所まで及ぶほどの電波はやはりない…のかもしれない。

ちなみに今聴いている曲はこれ。

www.youtube.com

出会いと別れ

この世にはうんざりするくらい出会いと別れがある。

基本的にある出会いは学校や会社。大概の人はこのあたりで友達とか恩師を見つけて楽しく過ごすらしい。

自分はその枠組の中では特に自分に合う人を見つけられず、現存している人間関係はほとんどがツイッターで見つけたものだ。学校や会社の関係はほとんど切らせてもらった。

ツイッターはつぶやき内容を見れば当人の思考や感情、性格の傾向がある程度つかめるため、自分と合うかどうかの判定がしやすい。文字コミュニケーションだからか意外と相手とのとっかかりも易しく感じる。

まあそう言いつつも学生の頃はツイッターで自意識が高かったのか誰も解ってくれないことに苛立っていたのかかなりのメンヘラっぷりを発揮していた時期もあった。それでも多少好い関係を築いてこれたのは、相手の人徳に依るものだと思う。

要らない連絡先は消すに限るし、人には忘れてもらいたい

自分には、連絡もとらない相手の連絡先をずっと残しておくことがあまり理解できない。(否定はしない)
電話帳にしかない名前の文字列や、連絡をとらなくなった間に変わってしまったかもしれないメアドや電番、ブロックされているかもしれないLINE IDなどを持っているのは虚しい。

自分は要らない縁は基本的に消してしまうようにしている。何年も連絡とっていなかったのに再度連絡するという事例も今までなかったし、そんな一縷の望みにかける意味もない。

むしろ、そんな薄い関係性なら自分のことはさっさと忘れて欲しいくらいだ。

一度間違えて「あなたの電話番号を保有しているLINEユーザーが自動で友だちに追加したり検索できます」みたいなLINEの機能にチェックを入れてしまい、その瞬間に何人か友だちリストに出現したことがあって焦ってすぐに全員削除したが、「こんなにまだ自分の電話番号を保有している人間が???」と恐ろしくなった。

電話番号を変えるのは色々面倒なので今のところしていないが、それにしてもみんなものを大事にするんだなと思った。いや、無頓着なだけなのだろうけど。

「また遊ぼうね」は希望とも絶望ともとれる呪文であることは知っておいてほしい。思い出して連絡を取ろうと思えない相手のことは、忘れてくれていい。自分も出来るだけ忘れていく。被害妄想として思い出されることは未だにあるが。

自分も「思い出にしている」?

ツイッターで出会った人でも、向こうに恋人が出来たりして連絡をとらなくなっていく人がいたりした。それは仕方ないことだし別に構わないが、やっぱり虚しくはなる。

でも、当時は本当に仲良かったことを思えば「当時の自分には必要な縁だったんだろうな」と思わざるを得ない部分もある。

ここで先程「思い出にされるくらいなら相手を脳内で殺す」が思い出されるが、自分もやはり「思い出にしてしまっている」のだろうか。記憶としてはもちろん自動的に保存されているが、別に相手を思い出して懐かしんだりは特にしない。となると、「思い出にされる」というのはなんなのだろうか。

「ああ、あの人と遊んで楽しかったなあ、、もう会うこともないけど」が一番思い出にされている感があるが、では自分もやはり全くそれをしないかと言われればそうはいかない。

誰しも人を思い出にして殺してしまうということか。人は人の実存を消すことも出来る神的視点も持ち合わせている。

思い出にされる運命をたどるなら出会いたくなかった

…というのは結果的な位置から見ないと分からないので後付理論にならざるを得ないのだが、出来ればやはり思い出にされたく/したくはない。という関係作りを親しい間柄ではしておきたい。

会社や仕事やなんやくらいの関係であれば別にいい。適当に付き合っておくのがむしろいい。逆にそれにも関わらず相手から好意を持たれて仲良くされるのが厄介なので、自分はもう組織や集団に関わりたくないが。

しかし自分が「この人とは積極的に仲良くしていきたい」と思った人がいたとしたら、出来れば長年の付き合いが出来るのが理想と言えばやはり理想だ。

最終的に思い出とされる程度の付き合いなら最初から出会わない方がマシだとさえ思うのだが、これに関しては振り出しに戻る。

人の影響力というのはすごい。人と会話や交際をする時、間にどうしても感情的評価が下ると思うのだが、その評価に応じた影響が自分に降ってくる。相手が読んだ本、抱える悩み、目指す方向、知識、思想、ありとあらゆるものが雪崩れ込むことがある。

それが縁の切れ目に気づいたときには供給が絶たれている。「いやいや、影響受けられただけよかったじゃん!出会えただけ幸せなんだよ!」というセリフは既に思い出化(脳内殺人)に等しい気がする。相手の実存が消えた事実を正当化することと及ぼされた影響に関して言及することは別のことだから。

相手が消えたと知った時、既に多くの時間が経過していることだろう。どちらかが連絡をとっていれば関係は継続されているので、どちらも連絡をとらなくなる期間を過ぎた後は、もう。

その後、生涯でまた縁があればそれでいいのだろうか。正直、一度縁が切れたらまた気がお互いに向いて再会することはそんなにないと思う。恋人関係はちょっと違うかもしれないが。

だから出来れば、ずっと続く関係を築くことでお互いの中できちんとお互いを生かしておけたら、相手の近況を知りたいと思えるほど何か惹かれるものがお互いに有るままでいられれば、それはそれは好いなあと思う。

人はいつか死ぬ

さて、そろそろ最後にしよう。これは最近の自分の言い訳でもある。

「人はいつか死ぬ」。だから、出来るだけ会いたい人に会ってしたいことをしていく。例えそれが、多少世間の倫理観や常識と外れていても。

常識からは外れていてもまだいいかもしれないが、倫理観から外れるのは本来は糾弾されるものだろう。しかし、自分自身にしか分からない世界や意識や観念や感覚などというものは恐らくあるのだろうと思う。(在るかどうかは厳密には確認し得ないが、無いとも言えない)

どうせ死んだら(チャラになるとは言わないが…)やはり全て無に帰すので、熟考した上で、綺麗でない泥道でもやはり選ぶことはあろうと思う。

そして、人は人に(犯罪行為以外で)「止めろ」とは言えない。誰かの選択の結果、その人がケガをしても止めることは本来出来ないのだろうなと思う。人は勝手をする生き物だ。猫だけじゃない。

ただし、その責任は自分で負わなくてはならないのもまた確か。動物の世界もそうだし。

死ぬ前にやりたいことがあるのなら

死んだ人間と何人か対峙した。冷たさに驚愕した。体温が微塵も感じられないことがあんなに怖く悲しいことだとは、触った人にしか分からないだろう。二度と動かないし、燃やされてしまうところがゴールになる。

昨日、火事になって自分独りだけがマンションに取り残されたのに気づいた夢を見た。スマホとPCを持って部屋から出るも、他の部屋はもぬけの殻。自分だけが燃え盛るマンションの中で立ちすくんでいた。階下の熱風で、熱い、本当に死ぬんだ、と思った瞬間目が覚めた。まことしやかな夢。あの中に本当に居たら死んでいた、そういう未来もあるかもしれない。

死を感じる瞬間は日常にそう多くない。だからこそ死を忌避してはならないと思っている。親ももう死ぬだろう。自分も知り合いもいつ死ぬかなんて分からない。同居人が出かける時は、毎回「死なないで」と心の中で祈っている。

これまでの人生で幾度も後悔をしないように、最善の選択をしたつもりでいた。それなのに思い起こせば後悔は募る。

どんな生き方をしても、完璧なんてあり得ないということだ。そしていつも一歩ずつしか進めない。

綺麗でなくても、その時最善だと思う道を選んでみることしか、人生にはもうないんじゃないかと思いました。