厭世思考

自分の厭世観、思考記録メモ

歪んだ僕の、コミュニケーションと人間関係についての考え方

f:id:worldhate:20171227200822p:plain

さて、今回は自分にとってのコミュニケーションと人間関係について話していきたいと思います。

なぜ人は人に飽きてしまうのかとかトモダチというふんわりした関係についてとか恋人や配偶者という契約関係、浮気や不倫、人は今ココについてしか考えられないこと、過去というのはもうないことなどについて。

なぜ人は人に飽きてしまうのか

コミュニケーションに関して思うところが多々あって、その内の1つは「人はなぜ人に飽きてしまうのか」ということ。
お互いに興味を持っている前提の人間関係を作ろうとしている場合、最初話し始めた頃が一番楽しい。その後も共通点や興味の対象が同じであれば話題としては続くだろうが、やはり初対面の頃の楽しさは失われていく。僕はそれが非常に悲しいと思っている。

例えばツイッターなどネットで出会った人の場合、基本的に最初は敬語で話すことになるはず。形式的な問題だが仲良くなるにつれてタメ口になりどんどん深い話もしていくという流れになると思うのだが、ただやはり底がある。いつかどこかでグラフが頭打ちになる時が来るのだ。

そのうち近況を話すだけになり、大して深い話もしなくなる。友人関係であると特にそうだし、多少いい仲になった男女でもまま同じだと思う。

話すことに飽きていくということは、しゃべることがなくなっていくということだろう。ただ、実際に話すことが全くなくなるということはそこまであり得ないことではないだろうか。人が流れる時間の中で生きて変化している限り、話題は探せばそれなりになくはない。

つまり、どこかの時点で「それなりに親しくなった=この人とはもう結構色々話し切った」と思い込んでいる。それでなんとなく「新規性のある話題の代表・最新情報=近況」を聞くだけになっていく。なんとなく天気の話題を出せば無難というのと同様で。

「もう結構色々」って実は曖昧なのに、その認識を以て次回の関係性が作られている。既知の情報を何度も与えるわけにはいかないので新規の話題を出そうとするのだが、「これはもう話した、あれも、これも…」となっていくと、実は他にも話題がないわけではないのに「なんだ、もうないわ」と思考が停止する。(実際はネットやTVや本やなんやを一緒に覗くことで新規性のある話題は作れる)

コミュニケーションの頻度を減らせばいいのか

では、コミュニケーションの頻度を減らすべきなんだろうか。

それも1つアリかもしれない。たまに会うから関係性が長続きするという話もある。

しかし逆に、頻度を減らせば忘れられてしまうという危険性も否定は出来ない。目の前にいないものを認識し続けることは大変なことだ。
よっぽど好きとか家族であるとかペットなので守ってやらなければならないとか、そういう確固たる心理的理由がない限り二軍落ちする危険性は無視できない。想起される切っ掛けすら失われたらどうする?忙しかったり他の人が優先されればもちろん十分にあり得ることだ。

なのに不安になってコミュニケーションを頻繁にとっても、結局鬱陶しがられたり飽きたりして消えていくパターンもあるという。

ここまで考えると、人間関係が続くなんていうのは結局運や相性という偶然が起こす一時の現象・結果でしかないことが分かる。

話す頻度を落として、なんでもかんでも情報は小出しにして楽しみを先延ばしにして、あまり重苦しいことはしゃべらずなんとなく楽しい時間を共有していればいいのだろうか。それがトモダチというやつなんだろうか。
僕はあまりそういうコミュニケーションが好きではないので、自分と深い話をしてくれる人間を求めてきたし、頻繁にコミュニケーションを取っても苦に感じない人を探してきた。

しかし自分に合うかもしれないと思う人間を探したと思ってもそこでもまた結局お互い飽きてしまうというのだからもうキリがない。僕は悟った。

ずっと敬語だったらどうなるのか

例えば初対面時点のまま、ずっと敬語でも構わないのではないだろうか。タメ口になる必要があるのだろうか。

お互いに興味を持っているという前提だが、人と人との距離は遠ければ遠いほど近づきたくなる心理が働く。つまり逆に「遠くなくてはいけない」のだ。人は何かを手に入れると満足してしまう。それ以上求めることはなくなる。これが全ての元凶だろう。

なぜある程度遠いままではいけないのか。いけなくはない。ただ、基本的にはそんなことを最初出会った頃に思う事ってないから、そのまま近づきたくなる心理に任せて近づいてしまって、その後気づくんです。「ああ、最初の頃に戻れたらいいのにな」って。

この場合、お互い初対面の雰囲気を維持する努力が必要になる。しかしこれはお互いにその意思がなければ成立しない。その意味では非常に難しい。自分一人が努力をしても報われない。

「今ここ」しかないので過去の思い出は無意味

生命にはいつも「今ここ」しかなく、「今ここ」しか認識できない。過去は全て記憶として蓄積され、今ここに直接影響を及ぼすことは原理的にできない。過去が今の自分を作っているとしても、それは過去=記憶を引き出してきて今の自分が処理を行い、今ここの自分を構築するという作業を繰り返してきただけだ。今ここにいる自分というのだけが認識出来うる自分なのだ。

今ここの地点から過去を思い返したり未来を予期したりすることしかできないので、常に自分というものは後悔や絶望やあるいは希望というものに苛まれている。

過去は歴史と言い換えることもできる。要するに知識である。今ここにある記憶を知識として、ツールとして活用することが可能だ。

しかし過去(記憶)にある程度の有用性しか担保されないのは、過去が過去だからである。つまり人間には変化が生じるので、参照される過去は常に古い情報になってしまっているということだ。消費期限がある。その意味でも今ここしか自分は見ることができない。

参照される過去を使って今ここを定義したり何か作用を起こさせようとすることは可能なのだが、導かれる結果はもはや偶然にすぎない。過去は類推材料にしかならなくて、自分のあずかり知らぬところで勝手に変化したものに対してその過去ツールを適用してももう遅いのである。

例えば、彼女はウサギのぬいぐるみが好きだったと記憶していたのでそれを誕生日に買っていったが、今の彼女にはそれはもう要らなくてヴィトンの財布が欲しかったのにみたいな話で。

結局全ては最新の状態に保たれていなければ意味をなさず、その意味で過去のコミュニケーションというのは実は正体がないとも言える。過去なんて、記録でもしていないと忘れている部分だって多々ある。自分の変化も相手の変化も、「いつの間にか」起こっていて、「いつの間にか」気づくものだ。気づいて想起する時点ではもうその変化前の過去はかなり遠い時点になってしまっていることだろう。

なので、今まで話してきた思い出とか楽しかった記憶とかそういうものは全部娯楽の一種になっていくんじゃないかと思う。思い出して懐かしむおもちゃ。破局や離婚などを考えると積み上げてきたものを壊すということはいくらでもあり得るし、それはやはり誰もが「今ここ」に生きているということを示唆している。

自分たちは常に最新の状態にアップデートされているわけで、誰かとコミュニケーションを取るときも、実は常に初めて会った状態に近いのである(四六時中一緒ということはあまりないので)。実際には過去の記憶を引き継いでいるけれども、しかしブランクが空けば空くほどもう別人と定義しても構わない。

一つだけ注意しておかなければならないのは変化の度合いであり、変化するのは間違いないのだが、変化の度合いに関しては正直わからない。

例えば3日で人は変わってしまうみたいな話もあるが、本当に3日の間に何か大きな出来事が起これば急に変わってしまうということもあるだろうし、逆に何ヶ月経ってもほとんど変わらない人間もいる。これは生活形態や触れる情報などの環境要因に左右される。つまりこちら側から基本的にコントロールができない。コントロールが可能なのは人間の本能や心理、構造に働きかけるルール・法則だけなのだ。

自分を例にとってみても、小学生の時、中学生の時、高校生の時、浪人の時、大学生の時、新社会人になった時、そして今、全て別人だ。 もしくは直近の時間で言えば半年前の自分と今の自分ももう違うだろう。新しい知識を組み込み、たまに人と出会い、その人から影響を受け、毎日意外と違うことがあって、なんだかんだ「今ここ」の自分というものがどんどん変容していくのを感じている。

相手の意思・印象はある程度操作できる

コントロールが可能なのは人間の本能や心理、構造に働きかけるルール・法則だけと述べたが、そんな感じで印象や好意というのはある程度操作が可能だ。環境要因で相手の思想が変わっていくのは自然に任せるしかないが、その中でも根本的な部分、人間の本能や心理、構造などの部分を突けば相手が変化してしまってもある程度こちらへの好感や興味を保ったままでいられるのでは、と思った。

言い方は悪いが、意図的に操作できるのならすればいいと思う。というより、恣意的にその操作を行わなくても、結局何かしらの感情や表情の表出はしているわけだから操作は必ず(自動的に)行われていることになる。

でも意図的にできるならやった方がいい。うまくいくかどうかの結果は別としても、例えば相手を多少自分の方に向かせるとか意図的にいい方向へ動かすとか、そういうことができるようになって繋ぎ止められるなら、それもいいだろう。相手の人権を無視するような洗脳や無理やり相手をねじ伏せるようなやり方はダメだが、そんなレベルでないなら努力してみてもいい。軽い執着なら一種の愛と呼べる。

しかしこの操作自体は一時的なものである。操作を幾度となく繰り返していかないと魔法は切れてしまうので注意したい。

なぜ長く続く人間関係が存在するのか

なぜ人は人に飽きてしまうのか。この飽きを阻止する手段はないのか。と言ったが、逆になぜ5年も10年も関係を続けていられる人間関係が存在しうるのか。それも僕には分かり難い。

これが命である限り、変化が避けられないというのは分かる。誰しも同じ。肉体的な衰えもさることながら精神的な変容も常に生じていて、だからこそ5年10年というスパンでコミュニケーションを取り続けられるという現象に関して理解できない。彼らはほぼ変化しない人間なのだろうか。お互いの変化を粛々と受け入れているのだろうか。もしくはお互いにあまり興味があるわけでもないけどただなんとなく懐かしむためだけに軽い会釈を交わす、すれ違う幽霊のような存在なのだろうか。

今ここしか認識できないということに立ち返って、例えば一人の人を思い浮かべてその人との関係を過去にさかのぼって思い出してみるとする。最初に出会った時はどんな雰囲気だった、どんな話をした、どんな表情だった、仕草はどうだった、その人と話す自分はどんな感情だった、、その時の有り様と今の有り様を比べてどう思う?

そこまで考え至った時、僕は落胆する。その相手が誰であっても。その時点にはもう戻れないということを認識してしまうから。

5年10年と経つ間、人生のステージや自分の考え方はほぼ間違いなく変容する。すると、その思想に合わない人が自分の手から砂のようにこぼれ落ちていく。そうやって僕はいろんな人を連絡先から消してきた。でも、普通の人は「何かまた連絡を取るかもしれない」と連絡先を残しておくらしい。僕にはそれが耐えられない。一度連絡を取らなくなれば、もう取ることはほとんどないだろうと分かるから。(同窓会なんて行っても意味がないし)

なぜ連絡を取らなく=相手から連絡が来なくなるのか?それは、相手にとって自分との付き合いの優先順位が下がったからに他ならない。それを認められないから、最後の希望に連絡先を残しているように見える。メアドや電話番号は既に変えられていて、LINEならブロックされているのにも気づかず。

だから5年10年越しの付き合いなどは、僕にとってはほぼあり得ない。そんなに多くの人間とチャンネルを合わせられるのならこんなブログも書いていない。

もう一つ、人間関係の未来形についても同様に落胆する。過去の時点や今の時点で「長く一緒にいよう」とか「ズッ友」とか口約束を交わしても、所詮真っ当な契約ではないのだから叶う確約はない。にもかかわらず人間はそのような口約束を幾度となく交わしていく。「今ここ」の安心を得るために。

それが悪いとは思わない。人間には今ここしかないのだから、今ここにある安心を掴み取っていくのはその時点で何よりも大切なことだと思う。それにいくら過去は存在を証明できないと言っても、過去が未来を作り上げてきていることはやはり信じざるを得ない。だからコミュニケーションや人間関係の全てを否定するわけではないのです。

ただ、過去も古くなって消えていって変わっていって、現在その人と見つめた未来も実際とても曖昧で、僕はそれが…やるせない。

トモダチとはなんなのか

僕は友達という関係がよくわからない。あれほどふんわりした関係はないと思っている。そして僕はふんわりした関係があまり好きではない。よく分からないからだ。とりあえず恋愛にまでは至らないが話は合う程度の人間関係を友達とラベリングして箱に入れていると思っているのだが。そして友達だけは唯一契約が要らない。居ても居なくてもいい。

親子など血縁は戸籍で縛られているし、恋人も結婚も契約で縛られている。会社などの社会生活に関わる人間関係も上記の契約とはちょっと違うが基本的には雇用契約によって成り立っていると言っていい。

友達だけが全く何の契約も要らずに、突き放しても仲良くなってもいいことになっている。しかも何人いてもいいし、いなくてもいい。付き合いの深さ浅さも人それぞれだ。人生のステージの途中で消えていく友達もいればずっと付き合っていられる友達もいる(らしい)。

友達という関係に何の意味があるのか?一緒にいて楽しければそれでいいと人は言う。なるほど。孤独が解消されればそれでいい、承認欲求を満たしてもらえればそれでいい、なんとなく同じ体験を共有して同じ感覚になれればそれでいい、隣にいて話を聞いてくれればそれでいい、色々ある。確かにそれらは間違いなくメリットであると僕にもわかる。僕も寂しい人間だから。

では逆になぜ恋人が必要なのか。上記を見ていれば友達だけいればそれでいいように思えるが。しかし現実は違う。みんななぜか恋人を求めて結婚していこうとする。それは自分だけを見て欲しいと思うからだろう。つまり友達なんてふんわりした、不特定多数の関係に結局みんな満足していないのだ。要するに友達なんて何の役にも立たないのだ、最終的には。

例えば女性なら結婚してその人の転勤などについて行って引っ越しをするとかそういうことで友達を結局おざなりにしていく、生活が変わるってことはよくあると思うんだけど、その程度の置いていかれる関係が友達だということなんです。友達を優先して結婚しないとか引っ越したくないと夫に頼むなんてことは普通はない。

恋人や配偶者というのは友達よりもより高次の関係であるということを認めなければならない。(ビジネスパートナーは全く別の次元にあると言っていい)

この事実を認識すると僕は非常に悲しく思う。人間関係の在り方というものが全くわからなくなっていく。大体、配偶者だって30年も40年も一緒にいるという契約をこんな若い時点でさせられるなんて。一緒にいるというのはずっと相手に嫌悪感や飽きを(限界まで)起こさないで安定している状態を保つことだ。自然にエントロピー最大値を保っていられるか?僕らは原子じゃない。

それなのにやはり契約を結ぶ、結びたいと言う。所詮社会制度に裏打ちされた都合のいい組み込みシステムなのにどうしてみんな嬉々としてその契約を結ぶのか。それは人間が「今ここ」しか認識できないからだ。

ああ、恋人だったら、一人暮らしだったらまだ破棄も気楽でいい。しかしそれでも「年齢」という謎の足切りシステムによっていつまでも「恋人」は続けていられないということにされる。「結婚」に足を持ってかれる。

結局自由意思なんてないんだなぁと思わざるを得ない。僕たちは常に自身で決定しているように見えて、いつも神の見えざる手(同調圧力・文化・しきたり・本能・感情・DNA・構造・心理)に愛されて踊らされているのだ。

僕のこのブログは、果たして自由意志の下に書かれているかな。

都合のいい存在にラベルがつく

さて、どうしたら今ある人間関係を半永久的に死ぬまで保つことができるのか。そんなことは原理的に不可能だとして諦めた方が得策だという意見もあるだろう。得策かどうかは確かにともかく、できるかどうかというのはまた別の次元に存在するので少し考えてみようか。

先ほど述べたような小手先のテクニックを学んだり、心理学を知ることで相手を意図的に操作することができても、それで半永久的にスパンの長い関係を作れるかどうかはまた別のところにある。好意もいずれ飽きにつながらないとも言えないし、他にもっと好意を抱く対象はいくらでも湧くだろう。飽きてそっちにいく、それが繰り返される。

小手先のテクニックを利用する場合にしても、本質的に半永久的な関係を築けたにしても、根源にあるのは「お互いがお互いにとって都合のいい存在である」ということだろう。【友達】も【恋人】も【ビジネスパートナー】も同じ条件のついた名前の違うラベルだ。家族は都合が悪くても勝手にシステムに組み込まれてくるので違う。

では都合のいい存在になるためにはどうすればいいのかなんて、考えるまでもなくめちゃくちゃ簡単なことだ。相手の望むようにしてやればいい。いつだって君を理解しているという顔で笑ってやればいい。 たまには時間やお金などのコストをかけて相手に何か施してあげるといい。相手が困っているときは手を差し伸べてやればいい。その行動全てが好意として、メリットとして相手に受け取られる。そんなことやろうと思えばいくらだってできる。小手先テクニックとあまり変わらないじゃないか?その通り。皮肉だけれど。

上記のような好意をもたらす行動によって、相手も返報性を以てある程度はその好意を返してくれるのだが、だからといってそれでどこまでも好意がうなぎ上りになるわけではない。ただの親切心として適度に処理される場合もある。でもやはり、親切な人間は重宝される。都合はいいから。

だから「ずっとこの人にそばにいて欲しい」と相手に思ってもらえるように、都合のいいヤツ+実際はちょっと思い通りにならない部分も交えつつ振る舞い続けられるなら、それで半永久的な関係になれるのかもしれない。続けられる、なら。

さて、逆に相手を自分の都合のいい存在にするのは少し難しい。ここで小手先テクニック操作を使っていくということになるのだろうが。

まず、自分が尽くした分量を相手が返してくれるとは限らない。その点を鑑みると、自分の方で「こんなに尽くしてあげたのに、こんなに許したのに、こんなに…」と不満が膨らんで相手との関係を切るということも十分にある。人は対等もしくは自分が上に立つことを望んでいる。それが叶わないなら相手を消す、思い出の中に閉じ込めて殺してしまう。…蛇足だが、唐突に消えた人間はそういうことを考えているのかもしれない。

太宰治ではないけれど、僕には人間関係というものが「都合のいい存在」ということ以外は皆目わからない。確かに皆、それなりに嘘をついて体裁を保っているんだろう。しかし本当の事を言ってくれないかと思うことがよくある。それがたとえ汚い本音でも構わないから。それが見えないのであればその人とはそれまでだ。

関係を終わらせるとまでは行かなくても「それまでの関係しか相手に望まれていないんだな」って思いながら今後も付き合うわけで、それはつまり進展の終焉を意味している。他人の意思は変えられないが、だからこそ自分を変えるしかないと言うのであれば、「もうこの人に尽くしたり愛情を注いだり好意を向けたりしても何の見返りも得られないというのなら、あまり親しく付き合う必要はないだろう」と見限るというのもそれに当たる。傷つくのはイヤだから。

見返りという言葉を使ったが、無償の愛は訓練が要るものであって、普通はほとんど存在しないと言っていいだろう。母親だって子供を捨てる時代なのだから。ただし見返りの種類はそんな大したものでなくていい。一緒にいて楽しいとか、話が合う程度でも十分見返りと呼べる。

しかし見返りがないものには何も与えられない。自分の邪魔になる人間は、自分に関心がない人間は捨てる。そうなっていく。

進展のスピード

あともう一つ、進展のスピードについて。僕は特に自分の好む人に対して、進展のスピードが遅いなと思うことがある。これは白黒思考から来るものだろう。グレーを楽しむのは非常に難しい。しかも自分はいつも焦っている。生き急いでいる。老化も死もすぐそこにあるのに、のんびりしていられないと思っているからだ。もっと先へ、もっと深く。そう念じてしまう愚かさを秘めている。

ただ、これは自己矛盾している。冒頭では、変化が怖く初対面の関係を維持していたいと言っていたのに「この人との進展はスピードが遅い」と苛立つ?これは一体どういうことなのか。

「最初の関係を維持していたかった」という発言が出来うるのは、ある程度関係がもう進んでしまった時点、ある一点に当たる。しかしそこは進展のスピードについて言及している時点とは無関係な時点だ。

つまり、人間関係を進めている間に「最初の関係を維持していたかった」と思う時点と「この人との進展はスピードが遅い」と感じる時点は別時点なのだ。実は矛盾していない、ということになる。

しかしその2点を過ぎた時点で後ろを振り返った時に「矛盾」を感じ取る時点が発生する。僕は自己矛盾している、とそこで気づいた時、その矛盾を解消出来るか?

…おそらく出来ないと思う。思いや感情は論理ではないから。整合性が取れる論理で構成されていればよっぽどよかっただろう。

出会うタイミング

人と出会うタイミングという問題に関しても非常に難しいと感じる。

「もうこの人以外に自分とうまくコミュニケーションを取ってくれる人が出てくることはないだろう」と思って、一旦それで他の人と仲良くする機会を捨ててしまってそれでいいと思っていたにもかかわらず、新たに非常に仲良くなれそうな人が出現してしまった場合。

要するにもう自分にはこの人しかいないだろうと恋人になってしまった人がいたのに、まさかそんな、他に好きな人が彗星のごとく現れてしまったら。そんな場合はどうすればいいのか?あるいは逆でもいい。好きになった相手には既に誰かが居座っているとか。

この場合、例えばすでに結婚していたとしたらもう取り返しがつかない。結婚契約はカンタンには覆せないだろうから。なので結局出会いはタイミング、運だということになる。

しかしそんなものは予期できるはずがないのだから本当に困る。恋人や配偶者の契約を破棄して他の人と新たな関係に進むということもまあ不可能ではないのだが、それには大きな労力が伴うし、今まで築いてきたものをぶち壊すという意味でも非常に勇気がいるし、かつ新しい関係に進んだからといって幸せになれるとも限らない。リスクが大きすぎるということだ。

失うものが何もなければいいのだが、…つまり本来、婚姻契約はむやみやたらに交わすものではないのだろう。(恋人程度ならまだ破棄しやすい)

でもそんなことをいちいち考えて人と恋人・婚姻関係を結ぶことを遠慮するみたいなことは普通はないので、だからこそやるせない。

特に人間は寿命が長すぎる。変化なんていくらでも起こる。なのに一生一人の人を愛するのが当然だとか、それは確かにそうなのだが。。

幸せとは、自由とは「程遠い永遠」なのだ。

浮気や不倫、倫理観

正直、僕はこのまま一生独身でもいいんじゃないかと思った。仕事さえあれば、お金さえあれば、生命は維持できる。それに死生観が大きく変わってきている現代においては安楽死システムもそろそろできてくるだろうし、そう思えば死ぬことも未来には怖くなくなっているだろう。

なら独身のまま、好きな人みたいなのを何人も作ってその人たちと適当に毎日楽しく過ごしていればいいんじゃないのかなんて思うこともある(それに同意して一緒に過ごしてくれる複数の相手はそもそも現れないだろうが)。ここで登場する僕を殺す武器が倫理観・モラルである。

僕はどうせ死ぬというのが前提にあるので、倫理観をあまり過度には重視していない。よろしくないというのはもちろん分かっているけれど。死んだら全部チャラになるというのではなくて、死んでしまう前にできることというのは一度きりしかないわけだから、それをやらずに死んでいくっていうのが嫌なのだ。愛は1人に1つだけ与えられている宝石などではない。悲しく聞こえるけれど。

別に浮気や不倫を肯定するわけじゃないけど、その意思を止めることが原理的にできるかということだ。仮に同居人が浮気をしたとしても、悲しくて辛い思いは湧いてくるだろうが、本質的には相手の意思を咎めることはできない。相手もまた勝手に湧いてくる恋愛感情でそうしたのだ。それはもはや相手のせいではないとも言える。スイッチオフで止められたら誰も苦労しない。

進化生物学的に言えば人間も大した年月を経ていないのでまだ進化途中みたいなところがあって、実際本能的にはボノボと変わらないらしい。その本能の部分を恋愛心理学だとか恋愛工学という体系にまとめて利用しようという動きがあるっていう、そういう知能が人間にあるだけで、本質的には何も変わっちゃいない。だからもう、その辺りを(非常に悲しいけれど、悔しいけれど)咎めるにはDNA構造や本能を変えてしまうレベルにまで到達しなければならなくなる。

何があってもしょうがないって諦めてるところもある。人は死ぬし歳をとるし醜くなるし変な知識を入れれば変な精神になっちゃうし、何かちょっとしたきっかけで自分のことを好きになることもあれば、逆に嫌いになることだってある。地震が起きてこの国がひっくり返ることもあれば、経済的に破綻して国家ごとなくなることもある。突然戦争が起きて負けたりとかミサイルがヒュンヒュン飛んできたりとか、もう何も驚けない。

それなのに恋だの愛だの友情だの仕事だの、俗世の瑣末な問題に囚われるのは嫌だな。まあ俗世の瑣末な問題以外に考えることなんて、僕には別にないんだけど。僕は研究者でもないし哲学者でもないし何かを生み出せるような理論を持っているわけでもない。考えることは好きだけど仕事じゃない。お金を生み出すこともない。

だから結局こうして俗世の瑣末な問題を考えてそれに翻弄されて毎度毎度疲れて疲弊して、最後には死んでいくだけなんだ。

そう、どの生命においても最後は死ぬ。死ぬってのに、どうして縛られなきゃいけないんだろう。いや、でもわかる。僕だって相手を全く縛らないような自由を認める器の人間じゃない。わがままを正当化したいだけだとレッテルを貼られても仕方ない。

僕は自分について、あるいは自分の周りについてしか考えられないという前提で、それでも浮気も不倫も肯定はしないが、もし仮にそういう事態に自分が巡り合ったとしたら、死ぬまで隠し通して生きる意思を持つべきだとは思っている。

この人生において最も大切なことは自分で自分の舵を取るということだ。つまり意思を明確に持つこと。 語られないもの・認知されないものは不在と言っていい。一生その不在を守りきれるか、隠し通せるか。その鉄鎖に縛られた思いを貫き通す意思がないなら浮気や不倫などはすべきではないだろう。

僕は考え方が歪んでいる。でも、これを読むあなたも歪んでいないと証明できるだろうか?自分だけはまともだと。流石にそういうわけではないと思う。生物としての基本構造が同じだったとしても、遺伝子も違えば環境要因も違う。誰一人として全く同じ思考様式の人間はいないだろう。作れない。

例えクローンを作ったとしても、そいつが生まれた時点で元のオリジナルとそのクローンは生命を分かっているので確実に分岐する。違う肉体を持ってしまえば、その個体は全く別の方向に歩むことになる。同時に同じ場所に存在するということがもう不可能だからだ。いうなれば双子のようなものであり、結局は別個体。

だから一人一人の歪みを僕達は認めなければならない。本当は。なんでもかんでも糾弾するというのは違うと思っている。糾弾を恐れてみんな萎縮して歪みを認めない社会から「いい人」が作られようとして、そして殺人者が生まれたりするんだろう。大体他人の浮気や不倫なんかどうだっていい。自分に関係なければどうだっていい、全て。

愛の形について信仰があるから、他人の愛の形もその鋳型に当てはめて再鋳造しようとするんだろう。でも、信仰鋳型は人それぞれだ。

契約を結んでおけばいい

とすれば、長くこの関係を変容させずに続けますよとお互い合意するために最初から契約しておけば、ラベルを貼っておけばいいのではないか?

世に言う愛人契約、セフレ、ソフレ、キスフレみたいなものだ。これは同性…というか自分の恋愛対象ではない性の友人に関してはちょっと当てはまらないが、それに関してはそこまで重要の高いポジションにはつかないか、あるいはわざわざ契約を交わす必要もなく優先順位が高くなっているだろう。

最初から私達はソフレですとかなんとか合意を取っておけばある程度の妥協と納得感の下に関係を続けることが可能になる。そこから昇格・降格などしたければ契約内容を都度変更すればいい。

もう、いっそそういう形式的な約束ごととしてお互いの関係を決めておけば後から余計な感情が湧いてくるリスクを避けられると思う。余計な感情というのは、例えば良かれと思って身体を許したのに、その後はそのこと自体を不問に付されて何事もなかったかのように通常どおりの態度を取られて非常に傷つくとか、そういう類いの予想外の裏切り・お互いの気持ちのすれ違いを防ぐということだ。

最初から自分の立場が決まっていれば文句は出ない(出にくい)。やっぱり言葉で明確に規定しておく・お互いに合意をとっておくというのは有効な手段なのだろう。

おわりに

死ぬまでの間に、本当に僕のことを理解して、あるいは逆に僕がこの人を骨の髄まで理解したいと思える人は現れるだろうか。分からない。仮に僕がこの人を骨の髄まで理解したいと望んでいても相手がそう思っていなければそれは成立しないし、もっと言えば相手が自分で自分のことを把握していないというケースもあって、その場合は僕がいくら理解しようとしても相手から僕に対して相手の中身が表出されることがないので理解しようがない。
うまくいかないんだなと思う。

理解したいと思った人もいた。でも段々、やっぱり僕なんかには理解できないと思った。自分を投げ出して接してみたつもりだったけど、相手にはまるで響いていなかったんだろう。だから諦めた。進展の終焉は突然現れる。でも、これには逆も言える。終わったはずの進展が突然始まることも、変化が存在する限りはあり得る可能性の1つなのだ。だから…いつかまた、その時に。

究極的には、僕は僕と話すしかない。他人とのコミュニケーションはこれからも通常どおり続けるだろうけど、自分との対話はそれ以上に重要性が高いからだ。本当はクローンや僕そっくりのAIとずっと会話していたい。

それが叶うまでは、一人で対話を続けよう。そして自分以外の誰か、お互いに向き合える人をこれからも探していく。使い方のない部屋で。