厭世思考

自分の厭世観、思考記録メモ

死。

死ぬこと。僕が最近意識していることの1つだ。

突然どうしたのだろう。いや、突然などではないのかもしれない。

いつだって僕は死に希望を見出してきた。インターネットでよく見かける言説のように。死ぬことだけが救いで、生は苦しみでしかないと。一昨年くらいまではそんな感じだった。しかし、これは実は「より好く生きたいのにそれが叶わないから反骨精神として死にたい!と言ってしまうだけの、いわば積極的な生への思い」だと思う。

最近はそれを超えて「死」に近づきつつある。

「今が一番幸せだから、このまま死なせてほしい」

そう考えるようになってきた。

僕のこれまでの人生は、家庭環境に始まりあまり普通とは言えないものだった。そんな不利な環境下でも出来る限り色々足掻いてみたものの、何か結果や功績、実績として形になったものはない。

そして、今後そのように結果や実績を残しておきたいと思える分野・物事も特にない。

以前は絵や物語などの創作分野においてそのような思い(使命感めいたもの)を、金を稼ぐことも含めてもっと明確に抱いていたが、今はかなり薄れている。

マチュアでフラフラしている僕が殊更やらなくても、もっと才能溢れる方々がきっともっとすごいことをやってくれるだろう。僕には何も残っていない。以前まで持っていた稀有なアイディアも、純粋な空想力も、興味も貪欲さも。

人間関係にもこれまであまり恵まれることはなかったが、現時点が一番好い人間関係を築けていると思っている。不要な人間関係を全て削ぎ落とし、必要な人だけと会話する。とても好い。

だから、これでもう十分なのだという感じがしている。

人間関係もいずれは壊れてゆく。砕け散る様を見てしまう前に僕の意識と海馬を破壊すれば、この主観世界を上手く終わらせられる。

とても美しいハッピーエンド。

上記のように言いつつ、別に本当に死んだりしないとは思うが、なんと言えばいいのか…どうも色々なものが薄れている気がしてならない。物質的に欲しいものももうあまりないしな。

海外旅行に行ったり、同人誌を出してみたり、綺麗な景色を見たり、セックスしたり、美味しいものを食べたり、面白い本を読んだり、映画やアニメや漫画を見たり、好きな音楽に身を委ねたり。

それら全てが一体なんだというのだろうか。最後は死ぬのに。

偉人を例にとってみても、個人的なことで名を残した人はほぼいないはずだ。つまり何らかの大きな業績を残しているから個人名やトリビア的な人格面付帯こぼれ話がついでとして出回るのであって、「あの村のAさんは本当にいい人で正直者で~」みたいな話が歴史に残ることはないだろう。まず業績があってこそなのだ。

業績のない無名の者が生きて何になるのだろう。

例え業績を残したとしても、それすら人類の文明が後世に残っている限りという範囲内でのみ有効な歴史であって、この広大な宇宙の塵である生命体という見方をすれば特段必要なものでもない。

スイスでは外国人も安楽死ができると聞いた。しかし動機に審査がある上に、英語で明確に理由を話せなければならないそうだ。そこまで至れないので、仮にもし死ぬとしたら普通に自殺するしか方法としてはない。

ちなみに首吊りが一番気持ちいいらしい。本当なのかな。

こんなにきっちり意識があって五体満足に動ける人類である自分も、結局ただの宇宙の塵、正体は炭素を含む有機体というだけなんだなと思うと道端のアリを思ってしまう。僕もそっと潰されるアリと同じなのだな、と。

自分が無知(必要なことを十分知らない)であり、無能(固有の役務をこなして誰かに何かを提供することができない)であり、無常(いつか死ぬ生き物)であることを思ってなお「生きる」ことに至上の価値を見出すことというのは、少し難しい。今の僕は、多分惰性で生きている。

人間には誰にも別に生きている意味など存在せず、たまたまこの時代のこの国にたまたま生まれて、たまたまこの私としての意識と肉体を持っただけみたいな話を哲学系の本で何度か読んだが、それを知ってしまうから「哲学科の者はすぐ死を志向する」というような巷の噂が流れるのだろう。

そして生きることに意味がないので自ら付与するらしいのだが、意味を付与する前段階としても動機というかエネルギーの1ステップが必要な気がする。

意味など付与しなくても「楽しい」などの動機だけで普通に生きている人もたくさんいるのだから。

意味を付与するというのは達成感が欲しいからで、多かれ少なかれ現状に不満があることを認識してそれを昇華しようとする試みなのではないだろうか。

「意味付け」は時間軸を前に進めて生きようとするためのポジティブな行為だ。それをしないことは、(他に生きる動機がないなら)この生命を放棄してもよいと思っているのと同義なのだろう。

今はその意味付けに値するような取り組むべき課題を見つけられないだけで、「これまで→今」の変化と同じく、もう少し生きてみればまた違う変化があって僕にも何かあるかもしれない。

…ないかもしれない。

いろんな人と会ったり話をしたが、みんな僕とは違う生き物だった。どんなに考え方が似ていても、どんなに身近にいても、どんなに仲が良くても必ずどこかで食い違った。別れを余儀なくされた。

いろんなことに取り組んでみたが、どれもそこまで身になったものはなかった。どんなに真剣にやっても、どんなに完成品へのイメージが強くても、どんなによりよくやろうとしても必ずどこかで薄れていった。挫折というより、自然と興味がなくなった。

そんな過去を経て、僕はここでいま、自分の手に出来うる全てをもう受け取りきったという気がしてならない。

それは「これ以上幸せになるのが怖~い」とか「これ以上望むのは贅沢ってもんだろ!」とかいういわゆる自慢や惚気や謙虚さの類いではなく、静かに満ち足りた涅槃の湖上で蓮の花に座るような感覚だ。

好く生きたなぁと思う。より好く生きたいとは、もうあまり思わない。

見回せる範囲のどこにいる人間を見てもなんだか何を考えているか解らないし(他人なので当然だが)、誰かと新たに知り合って理解を深めたり意見を交換したいと思うことも今はない。

以前はあんなに人を求めていたのに、不思議なものだ。

僕はこの部屋で独り散りたい。

積極的な幸せとまではいかなくとも、満ち足りた感覚と共にただこの時点で人生を綺麗に終えたい。

 

死ぬことはないです。まだないはずです。

とはいえ、生きる支えとして最も有効に機能するであろう「僕の気持ちを少しでも解ってくれる人」は、多分本当はいないです。一切皆空というか。

死ぬ前にやっておかなければならないことを、多分今後はゆっくりゆっくり消化して生きていくのかな、と漠然と思います。

とりあえず当面要らないものは棄ててます。あと遺書も、手慰みに書いてみてもいいかもしれない。最期と思い込めば、思考の整理には役立つでしょう。

ありがとうございました。