厭世思考

人嫌いの厭世観、思考をまとめたブログ

自己を自己たらしめるものとは何か

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今回このエントリを書くにあたっての動機。

それは、「自分には知識が足りないからインプットしなきゃいけないけど興味が持てなくてインプットしにくい。どうしよう」から始まった。

そこから自己を自己たらしめるものとは何かという問いに発展したのでちょっと書いてみる。

今回の思考発展の経緯

動機

「自分には①知識が足りないから②インプットしなきゃいけないけど③興味が持てなくて④インプットしにくい。どうしよう」

自分の持っている知識を挙げ連ねて自分とはなんなのか、というのが知りたいのではない。自分は知識を習得して何者かになりたい、その何者か(自己)とは何か、というのが主題となっている。

動機の解説

①「知識が足りない」

「足りない」の基準について。
ごくごく狭い自分の人間関係の中だけで見かける人々と自分を比べて「足りない」「少ない」と思っている。

②「インプットしなきゃいけない」

本来、別にいけなくはない。自分は学者でも研究者でもないから。ただ、どうやら自分は何者かになりたい(自己を自己たらしめる何かが欲しい)ようだ。だからその何かをインプットしたいということになったと思い至った。

そもそもインプットはなぜ必要なのか。なぜ行われるのか。
つまり、みんなはなぜ本を読むのか。なぜ小説を読むのか。なぜ知識を手に入れようとするのか。まずそこから分からない。

目的があれば、それが知識を手に入れる動機だと理解できる。仕事に必要だから専門書やビジネス書を読むとか、その知識があれば作品が作れるからネットで手段を探すとか。自分の生き方を変えるために人の生き方をロールモデルとして知りたくてエッセイを読むとか。

しかし特に営利目的などではなく純粋な好奇心・興味に関してはよく分からない。自分だって全く何にも興味が持てない人間かというともちろんそうではないのだが、純粋な興味で(単純に面白いと思って)何かを掘り下げて追いかけたことはあまりない。

蛇足だが、小説を読むというのが一番よく分からない行為なのだ。映画やアニメは動画なので、黙っていても勝手に内容が進んで情報を提供してくれるし、色彩が綺麗だったり美少女やロボなんかが出てくるので、なんというか美術品を眺めるのと似たような視覚的娯楽が得られるという受動的な行為なので、見たいというのも解る。提供時間も決まっている。

マンガも動画ではないが、絵がある分情景描写が理解しやすいのでまだ解る。

小説は、非日常に入れる上に想像をする楽しみもあるし、語彙の美しさや表現の豊かさに触れられるとても好い趣味なのだが、上記に比べて吸収するための労力が半端じゃないと思ってしまう。ラノベも含む。それでどうしても手をつけられない。

(挿絵があってもそれはあくまでキャラ付けや想像に対する補完程度の役割であり、挿絵だけを見てもストーリーは追えない)

③「興味が持てない」

今に始まったことではない。学生時代から興味が持てること(国語・英語あたり)は伸び、それ以外(理数系)は13点を取るような人間だった。

つまり今も、興味のない知識に触れるためには意図的に自分の意思を動かさないといけない。義務に近くなる。

学者や研究者は対象に対して体系的・包括的に興味を持つことが出来、かつその興味を持続させられることが出来た人たちと言えるだろう。

自分には「興味」の正体が分からない。もちろん何にも興味ないというほどではないが、あんなに多種多様なテーマが用意されているはずの本も読まない(継続的に読めない)し、学校で学習するような「生物」「数学」など体系的・包括的な学問に興味を抱いて深く調べたりまるごとインプットすることも出来なかった。

では自然に興味を持てることだけに触れていればいいのでは?とも思ったが、「自然に興味が発生する」ことはもはや自分にはほとんどない。このまま自分を野放しにしておくと格好ばかりで中身空っぽの人間が出来上がってしまう。それは嫌だ。

④「インプットしにくい」

次に思い当たったのがインプットの方法について。自分がインプットしにくい(本を一冊読み切るに耐えられない、内容を忘れていく)と感じるのはどういうことなのか。

これまでの知識インプット方法を思い返すと、自分は体系的・包括的なやり方で知識を網羅して手に入れるという方法が取れないことに気づいた。

少なくとも自分の周りの人間は、学生時代は教科書や参考書、今は本やウィキペディアを読んで体系的・効率的に知識をまるっと習得していた。それが自分にはこれまでも今も出来ないということに気づいた。

それが出来なかったから、理数系の学問もきちんとした理解に繋がらなかったのだろう。すると英語は?と思うが、言語は理数系の学問に比べてルールが(学生で習う範囲程度なら)複雑ではないし数も多くないのでいけたらしい。何より、言語を習う際には教科書などに書かれたストーリーがある。きっとそのストーリーに惹かれて言語を上手いこと習得できたのだろう。理数系の学問は感情や流れを排した形式的な学問なので、どうも入る余地を見いだせなかったらしい。

自分の知識習得の仕方はこうだ。
自分が小説を一片書きたいと思ったとする。その際に必要になったからある知識、例えば刑事罰について調べて習得して小説を書き上げた。
断片的で非効率的な習得の仕方、そして基本的には目的が存在する場合にまともな習得が行われる。主にそういう方法しかとれないのだ。これがジョブズの言う(線になる前の)点であると言うなら聞こえはいいが。。

自己を自己たらしめるものとは何か

ここまで考えた時、自分は知識を習得してどうしたいのかということに思い至る。すると、「何者かになりたいから」という理由が浮かぶ
そして「何者かってなんだ」というところから、「自己を自己たらしめるものとは何か」という思考になった。

「自己を自己たらしめるもの」はつまりアイデンティティのことであろうが、今回はそれに大きく関わる容姿や性格や口調などの特徴という側面を忘れて、知識という側面からのみ考えてみることにした。

【仮説】経験(知識)の累積が自己を作る

本を読んで得た知識でも、実際に何か体験して得た知識でも、知識は知識だ。仮にここではそれを経験と呼んでみる。

たった一回の経験を以てその人を説明することは出来ない。例えば一度遊園地に行ったからといってその人は何者であるかと言うことは出来ない。が、全国各地の遊園地を全て廻っている人ならどうだろうか。その人は「遊園地好きな人」、あるいは「遊園地に詳しい人」などとアイデンティティ的に説明することが出来る。
そこで、経験(知識)の累積がその人をその人たらしめるのではないかと思った。

それと同じで、例えば「無限という概念にも階層がある」という知識を持っている人がいたとしよう。なんとも面白い知識を持っていそうだなーと思って話してみると、面白そうな知識はそれだけであとは全部野球は楽しいとかあの店の飯が美味いとか女子が可愛いとかそういう話題ばかりだとしたらどうだろう。

「なんか無限にも階層とかあるらしいよ。」

へー、そうなんだ。もう少しその話聞きたいな。

「ごめん、俺もそんなに詳しくないからそれ以上はあんまり分からないんだよね。でもなんかロマンあるよね。よく分かんないけど。あ、そう言えばこないだ野球見にズムスタ行ったらすごく可愛い子が隣に座ってて、野球より断然そっち見ちゃったよ。ちょっとイケるかなと思って美味しいダイニングバー知ってるから行かない?って誘って見たらこれがアタリでさ、LINE交換したんだよ。なんでも言ってみるもんだね。」

え?ああ…そうなんだ。。すごいね…

・・・

最初の無限の話は吹っ飛んで、「リア充」「社交的」「その辺にいる人」(?)というような印象を受けたのではないだろうか。

1つの知識だけではその人を示せない。その人が持つ複数の知識・話題を総覧してカテゴリに当てはめ、一番多く当てはまるカテゴリが初めてその人の像として浮かび上がるように思えた。

では、さっきの人が違うカテゴリの知識を「半々」持つ人ならどうなのか。

「無限にも階層があるらしいよ。そもそも昔から無限の概念は大きく分けて二種類あって、無限小と無限大がそれに当たるんだけど、例えば無限小は素粒子で無限大は宇宙、みたいなことらしい。」

へー、そうなんだ。もう少しその話聞きたいな。

「じゃあ今度ご飯食べながら話そうか。俺もそんなに詳しくないけど無限って面白いよね。論文までは読まないけど、知ってると面白い知識って結構ある気がする。じゃあ、六本木のダイニングバーで美味しいとこ知ってるからそこにしようか。店の子も可愛いからよく行くんだよ。スポーツバーで野球見ながら話してもいいけど。」

へ、へー。。。じゃあ…うん。行こうか。店は任せる。

・・・

話題の比率を半々にしてみると、さっきの印象とはかなり違ってくる。可愛い女子に目がなくて野球が好きで美味しい店を知っているという(いわゆる)リア充的な部分では共通しているものの、科学的カテゴリの知識量が増えるに従って、後者の方がいささか理知的な人物像となっている。

(ただし、誰にでも同じ知識を話すわけではないだろうから、表層的には判らないこともあろう。あくまでその人自身の内部で起こっていることという話)

自己を自己たらしめたいがために知識を習得したい

無理やりまとめていく。

何者かになりたい=自己を自己たらしめたい=あるカテゴリの知識をある程度累積したい

まで思考が巡った。

しかし断片的な知識習得しか出来ない自分であるので、知識を専門的に学ぶ研究者のようなスタイルは取れない。

とはいえ、必ずしもあるカテゴリの知識を包括的に持ち合わせている必要性はなく、科学や倫理や生活など従来のカテゴリを横断してしまって「不思議な知識」「宗教と殺人事件と精神構造の関係性」などという、自分が興味を持てそうな新カテゴリ分けを作り上げれば、そこに自分を見つけることも出来よう。

あとは作品を作るなどの目的があれば過程として習得されやすくなるのも手段として押さえておきたい。

本が読めないというのは致命的だと思っているのだが、逆に目的を設定するか新たなカテゴリを創設すれば習得が不可能ではないことに安堵した。