厭世思考

人嫌いの厭世観、思考をまとめたブログ

好意/恋/愛について

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自分の中での「好意」と「恋」と「愛」について書いてみようと思う。

端的に言えばこの人なんか好きだな、話や感覚が合うなと思うこと(好意)・その人をもっと好きになって興味を持ち、興味を持たれたいと願うこと(恋)・そして自分を少し犠牲にしても何かしてあげてもいいかなと思えること(愛)という感じで大別している。

(記載するのはあくまで自分の場合である。が、とりあえず1個体の事例でもあれば「同意」「完全に相違」「類似だが相違」など鏡として利用することも出来ようと思う)

好意について

人と会話している間に条件を満たすと、ごく自然に芽が萌えるような形で、ふんわり一方的に生まれる感情。条件は下記の通り。

  • 会話中、話題の選定や感覚が合うと感じる
  • 相手が自分を含む他者へ攻撃的・否定的な様子がない
  • 自分との会話を楽しんでくれる様子が見られる

まだ大して親しくない段階に見られ、お互いに気を使い合っている状態。

個人的には

内面的には知性の高さ、洞察力の深さ、ある程度落ち着いたテンション、情緒を解することが出来る人が好ましい。
外面的には一般的に美麗だと言われる感じではない方が好ましい。美麗な人はそもそも自分を恋愛対象としないだろうし、内面的によくてもどこか嘘があるのではと疑ってしまう。服装にはそれなりの品があればよい。

恋について

継続的に会話が成立、コミュニケーションがある程度取れているという前提の上、その人のことをある程度知った段階で「恋」に移行する場合がある。移行する条件は下記の通り。(片思い・交際後共通)

  • ある程度話してもなお考え方が類似しており居心地がよい
  • 自分に特別な興味を持ってくれているように(錯覚でも)見える
  • コミュニケーション頻度と好感度がある程度高い状態が続く

そして恋の渦中では以下のような思考様式・行動が見られる。

  • プライベートな話題に関しても話したい/聞きたいと思い始める
  • その人に会う予定のために突然服などを新調する
  • 過剰にコミュニケーションを取ろうとする、独占欲が生まれる

その人を好意以上に好きになるというのは、興味を少し過剰気味に持ち、しかも相手側からも興味を持たれたいと願うことではないかと。

これが完全に一方的なまま何か行動を起こせばストーカーのようになってしまうわけだが、自分としてはある程度双方向でのコミュニケーションの中に恋を見出していくように思う。完全に相手がこちらを向いていないことがしっかり判っていれば、恋には落ちないだろう。それどころか好意すら薄れるかもしれない。

どうやら「興味の有無」がカギになるようだ。

恋は双方向でのコミュニケーション内に見出される感覚とはいえ、やはりまだ一方的な性質を帯びていると言わざるを得ない。恋レベルでは恐らく彼氏彼女という名前の関係になるだろうが、この場合まだ相手に望むことは「一緒にいる楽しさ」や「綺麗事」である。

己の内面をさらけ出したり、相手のことを支えたいと思うようになってくると積もり積もって愛に移行すると思われるが、愛に移行したからと言って必ずしも好い状態になるとは限らない。
愛に移行してしまったが故に堕落に陥り、初々しさや楽しさすら消えていくことも多いので、恋のまま美しい関係を保つという形も十分に有り得る。

また、相手が自分に興味を持っていると知れば、恐らくは誰しも少しくらい相手を意識し始めるだろう。(よほど相手を嫌いでない限りは)
これをテクニック化して異性を落とすという高等遊民もいるようだが、彼らは基本的に「恋」(と性行為)の段階をずっと楽しむタイプと言えよう。相手に望むだけ望むので、愛に移行することはほぼないと考えられる。

愛について

恋のまま終わることもよくあるが、愛に移行する場合もある。もしくは愛に移行せず、下に記述した堕落・倦怠にシフトしてしまうこともあるので愛は必ずしも発現するとは限らないスキルである。

愛については条件を満たせば移行するという性質のものではなく、下記のような行動に気づいたら愛だなと思えるように結果としてなっていた、という感じだろう。

  • 例え面倒事でも(出来ることであれば)してあげたいと思える
  • 生理的に美しくない面も受け入れられる
  • 愚痴でも弱音でも聞く、それについて話し合うことが苦ではない
  • お互いの間に信頼と尊重が存在する
  • 相手が損害を被って欲しくないと心から心配してしまう

恋から愛に移行する際には恐らくある程度お互いが精神的に成熟していなければならない。子どものままでは相手を受け入れる準備が整っていないため、すぐに幻滅してさようならということになる。
つまり別れを繰り返す人は自身か相手が未熟なのかもしれない。

自分を少し犠牲にしても何かしてあげてもいいかなと思えることが基本的には愛だろうと思うのだが、愛のすぐ隣には「堕落」が待っていることも忘れてはならない。

堕落・倦怠期について

先程も述べたが、恋からすぐに堕落・倦怠期に陥ることの方が多いかもしれない。

愛に移行していればもう2人の間で大体のことは話せる仲になっていることだろう。同棲や結婚をしていなくても、お互いのことは大体知り尽くしたという感じだろうか。

また、愛し合っていれば協力して生活を成り立たせることも可能になるのだが、共同生活を営む際には当然ほぼ素っ裸の自分を見せて生活することになろう。(個人の部屋があっても)

すると徐々に「この人なら別に汚い自分を見せてもいいや。キレイな自分を作る必要もないし(面倒だし)」という諦念のような自堕落。が口を開けて待っている場合もある。

それは仲の良さ、自分の何を見せても壊れない絆・信頼の現れとも言えようが、間違いなく恋からは遠ざかった関係と言わざるを得ない。
倦怠期というか、倦怠そのものだろう。期間限定で終了するものではないと思う。

また、愛は一歩間違えば「おかん」的な空気を生み出す危険性も孕んでいるのでそこから堕落へ進むこともあろう。

  • 相手を恋人ではなく仲間あるいは共同生活を営む構成員の一員として捉え直す
  • 家でも外でも一緒に居る際の見た目に気を使わなくなる
  • 会話が単調になる
  • 以前ほど互いの趣味嗜好などに興味を示さなくなる
  • 互いを見るのではなく、どんどん向く方向性が違ってくる
  • 互いを同一化するためか異性という見方から外れて性的魅力を感じなくなり、性行為が減る

このような事態に陥らないようにするには、やはり顔を合わせる時間を減らすべきなのだろう。つまり「慣れ」「馴れ」を失くす。距離をある程度とったまま関係性だけを移行させなければならない。

恋人でなく友人でも堕落・倦怠に陥ることもある。

性行為について

恋でも愛でも大抵の場合お互いの合意があれば行為に至ることが可能であり、更に好意の段階でも成り行きという言葉の下に至る可能性もあるという謎の行動。性差もあるのでここではあまりスペースを割かない。

基本的には恋(両思い済)の段階から行われる行為だが、これは個人の貞操観念に拠るところが大きく、性行為に対してスポーツか遊び程度にしか捉えていなければ好意の段階でも十分に至る可能性はあるだろう。

性行為に至るまでの段階は多岐に渡るようなのでよく分からないというのが正直なところだが、その相手と未体験の場合は少し急ぎ気味となるようだ。
そして幾度と繰り返されても飽きが来なければいいのだが、同じことを繰り返して飽きるか、相手自体に恋慕の情がなくなってしまうと同じ人間との性行為は面倒となるらしい。そう考えると(子どもを作る以外の)性行為自体にあまり意味はないのかもしれない。性行為自体が愛情表現という説もあり、一概には言えない。ただし愛に移行していても、目線が変わると相手との性行為自体にこだわりがなくなる場合もやはりある。

おわりに

基本的には好意が恋になるルートをたどるが、恋が愛になるとは限らない。恋のまま居られれば楽しさは継続されるが、それは恐らく永遠に家庭を作らないというのと同義だろう。

また、堕落・倦怠期というのは飽きに他ならないので、出来ればそこに移行しないように努めるのが賢明と言える。しかしこの方法についてはもっと考察が必要となるだろう。

こうして段階に切り分けて見ると、人を好きになっても、最後の最後まで一緒に居られる人間というのは限られるということが解ってくる。
ただし愛の形については自己犠牲の観点など要素が増えるため、もう少しフィールドを拡げて考える余地がありそうだ。