厭世思考

自分の厭世観、思考記録メモ

自分の価値は、自分で定めなければならないと気づいた話

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「自分には価値がない」

これが、最近の自分の悩みの正体だった。何に悩んでいるのか、本質的には判っていなかったのだ。

価値とはなんなのか。長所や魅力とは違うのか。僕はどうして価値が欲しいのか。

また今日も、考えにハマっていく。

価値のなさに溺れる僕の無意識

京大を受験する夢をまた見た

僕はもう28だ。しかし未だにこういう夢を見る。10年前を諦めきれずにいるのだろう。

そう言えば、ロンブーの田村淳が大学受験をして余計な言動をするので批判を受けていた。ああ。僕だって金と時間が有れば受けてやりたい。

しかし、もう一度受けてどうすると言うんだ。

答えはカンタンだ、学歴が欲しいだけ。分かりやすい価値が欲しいだけ。そして話の合う友達が欲しかっただけ。

だからこそ、受かるはずがない。

10年前は心理学がやりたかった。でも、せっかく芽生えたその気持ちも僕のちょっとした学力も、僕だけの力では上手く育てられなかった。壊れた家庭のせいだと何度も落ち込むが、この一文を見ただけで「言い訳するな、甘えるな」と言い出す輩もいるのでこの辺りは割愛。

(ちなみに父親は50年ほど前の京大法学部卒。僕はハズレくじだということが悟られる。きっと、本来はもっと賢い母親と一緒になるべきだったのだろう)

浜崎あゆみの歌詞に殺られる

僕は浜崎あゆみの曲がとても深みがあって好きなのだが、彼女の「About you」という曲の歌詞に、こんな一節がある。

ねえ、どんなに望んでも 二度とは手に入らない、私が失った憧れのものをあなたは持っている。それがとても眩しい

この歌詞が僕を魅了し、殺していく。

僕には、ほぼ全ての人がなんとなく自分より価値が有って幸せそうに見える。

学歴。容姿。家柄。家庭。親。友達。能力。興味。愛情。慈悲。鈍感力。テンション。感受性。資産。土地。知識。知恵。

流石に本当はそんなことないのかもしれない。でも、誰もが自分なりの幸せと価値を拳に握りしめて生きているような気がするのだ。

毎日抜け殻のような生き方をしている僕とは違って。

価値とはなんなのか

価値。それは一言で定義しにくい、多面的な概念だ。
人から見た僕の人間的価値、仕事先から見た僕の利用価値、親から見た僕の子孫繁栄的価値。

それを踏まえた自分から見た自分の価値というのは、そうだな。。自分に利益をもたらす、あるいは自らを無条件で愛せるための性質ということだろうか。

ここで一つ大切なことに気づいた。

例えば他人にちやほやされたとして、他人からすればそれは僕の価値と言えるのだろうが、僕がそれを価値と認めなければ、なんの意味もないのだ。

僕が僕に有る価値を、「これが自分の価値だ」と認識すること。その認識の外に本当の価値というものは存在できない。

僕が、僕の価値を定めなければならない。

どうすれば価値が認識されるのか

幼少期に親から無償の愛を与えられていさえすれば、その後の人生でも自分に価値を感じやすいようになる。

基本的には、人間関係の中で相対的に価値が認識されていくのだろう。

しかし親から無償の愛を与えられていなければ、ある程度の年齢になって以降は自分で価値を定めていかなければならない。

これはつまり、幼少期(出荷時)に同梱されるはずの基本システムファイルが入っていないようなもので、しかも後付けのアプリで補うのも難しい。

感情が通じないなら、論理で賄うしかない。自然に価値を感じ取れないなら、自分の価値となりそうなものを書き出して相対化し、眺める。

それでもかなり助けになるはずだ。

僕の認識できる価値

もし僕に備わっていれば、それが価値だと認識できるであろう価値。(僕にいま有る価値ではない)

  • 容姿
  • 学歴
  • 能力
  • 納得のいく友人関係

欲しい。

長所は価値か?

さて、書き出していくと中には「長所、魅力」と呼ばれるようなものもリストアップされることだろう。

しかし長所あるいは魅力というのは価値の一部ではあると思うが、イコールではなさそうだ。

なぜなら長所というのは性格的な、つまり「優しい」とか「可愛い」とか「癒し系」とか「賢い」とか、そういう言葉に置き換えられる類いのものだ。

おそらくその一言一言は、実質的な価値は伴わない。他者から見た価値という意味ではそうかもしれないが、自分自身でそれを価値と思えるかどうかというと少しズレがある気がする。(容姿は自分にとっての価値と言えるかもしれない)

では、「優しいので人から愛される」「可愛いのでモデルになれた」「癒し系なので恋人が途切れない」「賢いので収入に困らない」などと結果も併せて考えてみるとどうだろうか。

結果が伴うと、価値として認識されやすい。

何かのプロにならなければ価値がないのか

これは、最近お金を稼ぐにあたって特に気になっていたことだ。

仕事というのは大体「何かの専門家」になることで成立している。「何でも屋」も、何でも大体請け負えると言いつつ機械修理やスマホサポートや力仕事…と、看板には結局自分の出来るメニューだけを書いてあるわけだから、請け負えるメニューに関しては専門家だろう。

裏を返せば、プロほど詳しくないと仕事にはならないということらしい。

一時的に金になっても、「またあの人に頼もう」という継続的な案件にはなりにくい。

社会人にされた時に、何かのプロになることまで強要されていたらしい。それが出来なきゃ食いっぱぐれる、手に職をつけろ…と。

僕はそれが恐ろしい。出来るわけない。しかし、…分かる。それは紛れもない、「価値」だろうな。

「30年何もしてこなかったから無価値」はウソ

18(高校生)くらいまでは、大体の奴がそこまで価値を持てるような生活は送っていないはずだ。
(灘とか東大寺は別格。あと、最近はハッカソンに参加して頭角を現したり株の部活作ったりとハイパー高校生も多数いる)

大学生になったからといって突然価値を持つやつも、(一部を除いて)そんなにはいない。大体1~2年生の間は遊んでいることも多いだろう。

そう考えると、例えば21くらいまでは赤子同然と見做せば、そこから生まれたというように計算し直せばいいのではないだろうか。

「30年何もしてこなかったから俺は無価値だ」と言う人もいるが、実際はそうではない。21歳からと考えれば、まだ9年しか何もしていなかった期間はない。まだ9歳なのだ。無価値どころか、価値をこれから生み出していくくらいの年だろう。

だから、脳細胞や筋力の低下が~などの鬱陶しい情報に踊らされるよりも、どうせ今ココしか俎上に載せることは出来ないので、、今からでも少しずつ歩を進めてみてはどうだろうか。

「愛してるよ」と独り言をいう現象

独り言で、誰に言うでもなく「愛してるよ。」とつぶやいて、そして冷蔵庫に抱きついて突っ伏している時がある。

あれは、よくよく考えてみれば無価値な自分への慰めであったのだろう。本当は誰にも愛されていないわけではないはずなのに、僕は、未だ、自分に価値を認められない。むしろこれこそが問題だ。「この人は自分を愛してくれているのだろうな」と知っていてなお、自分に価値を見いだせないなんて。どんな視点から自分を、相手を見ているんだ。

愛してる。こんな言葉、誰に対しても軽率には使えないからこそ、自分に与えすぎているのは危険な自慰行為だと言える。

大好き、とは言わない。それは本当に自分が好きである人間から出るセリフだ。

僕だけの価値はまだ見つからない

相手から見た時の価値なら、これだろうなと推測して列挙出来る。

しかし自分から見た自分の価値は、どうもまだ認識されない。誰か挙げてみてほしい。挙げてくれる人なんて、いただろうか。

いや、挙げられたこともあった。でもそれは…どうも自分で思う価値とは違っていたらしく、どうも根付かなかった。

意図的に探す所存だ。そうでないと僕は枯れてしまいそうだから。
そして、意図的に探さなければもう、自然に芽生えることはないから。