厭世思考

自分の厭世観、思考記録メモ

成功体験は別に人間関係にも自信にもつながらない。

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「小さな成功体験の積み重ねが自信につながる」

そうすればきっと友人も出来た。でも、僕の場合はそうではなかった。

今までの人間関係が現在ほぼ残っていない

先日眠りから少し覚めたとき、今までの人間関係について思い出した。
僕が学校、塾、職場、ネットで出会ってきた様々な人達は、そもそも再考してみれば別に悪い人達ばかりではなかった。むしろ僕の人格ややり方を認めてくれた人も多かった。

リアルの不要な人間関係は切ってしまう

まずはリアルの話。

どんな場にもそれなりだが適応してきたし、応援の言葉をくれる人も割りといた。けれど最終的には自らその人間関係を切る結果を選んだ。

自分にとっては要らない、もう上手くその関係を継続出来ないと思ったから切ったわけで、つまり彼らがくれた応援などの言葉や態度の実態は、薄くて継続性に乏しい社交辞令だと僕には受け取れた。

当然のことだが人には人の生活・すべきことが有るので、僕に対して割くリソースなど対面している一瞬しかあるわけがない。(家族や配偶者や恋人や親友など、よほど親密でない限り)

そんな中で僕に少しでも触れてくれたことは素直に嬉しかったが、僕は期待(その人を楽しませたり、面白い話題を提供したりすることも含めて)に応えられるようなタイプでもない。し、以前その人々の前で見せていた自分とはもう大分異なる自分に変化してしまったので、いま再度会って話しても上手くいかないだろうと思った。

相手が変わるか、そうでなくても僕が変わる。高校生の時の楽しいテンションはもう僕にはないので、それを求められても困る。お互い有益な話はできないだろう。

というわけで、僕のアドレス帳にはもうほとんど人は残っていない。

もう1つ、その好い人間関係の中にも苦手な人が付随してくるためにそれごと断ち切るケース。

僕の言動に非があるか、或いは直接的にはほぼ接触していないのに勝手に嫌いになられるケースもあって、とにかく面倒だった。
これは学校や職場など逃げられないところに多々在り、場ごと切ることになる。

ネットの出会いも消えていく

次にネットの話。

僕はネットとの親和性が高く、中学生のあたりでPCやケータイを与えられてからはネットで人と知り合うようになった。そして、高校生あたりからはネットで知り合った人と会うようになった。特に大学生の頃はわりと多くの人と会って話した。

昔はそれを全く恐れなかったし、付近にいるクラスメートや同僚とは全く違う性質の人と話せることが楽しかった。行けるところには新幹線でも行った。

でも、現在その人間関係もほとんど残されていない。当時いくら仲が良くても、そのうちに何かがあって突然仲違いし、壊れる。もしくは自然と連絡しなくなる。

せっかくお互いに合うと信じて人間関係を築いたネットの人で、さらに個人的に連絡先を交換したり会ったりしていてもなお関係が壊れる時は、どちらかが相手を拒んだときだ。
相手に恋人が出来て僕との友人関係を切れと言われたとか、単に僕と喧嘩して終わったとか、理由は色々ある。

どんな人にも、ある日を境に相手を必要としなくなるほどの変化が起こるらしい。

成功体験が有っても自信にはならなかった

さて、成功体験を積み重ねれば自信になるというけれど、これは僕の中で論理式に成らない。

先ほども書いたように、人から褒められたりネットで友だちを作るような小さな成功体験なら確かに僕にも割りと有ったかもと、思い返せばそんな気はする。

でも成功体験ひとつひとつに数々の苦難や理不尽が含まれており、「全き成功だった」とはとても思えない。

「色々あったから僕はこんな場所にまで到達できたなぁ」ではなく、「色々あったから僕は最終的にこんな場所を選んでしまったな」という印象だ。

なぜ成功体験があっても自信にならないのか

成功体験がそっくりそのまま自信に変換されない理由は、遍くものは全て変化するという考え方に拠るのかもしれない。

あの状況で成功したから、褒められたからといって次も同じとは限らない。環境や自分といった変数は株式相場のように常に変動し、全く同じ状況はやってこない。類似の状況でもその場にいるメンバーが違えば話の進行も違ってくるだろう。(普通に以前と同じく上手くいったり、或いは以前ダメでも次こそは、ということも在るだろうが、それは結果論でしかない)

実際、以前の職場では上司からそれなりに高い評価を受けていたこともあったが、いま同じような仕事に就いたにも関わらずむしろ蔑ろにされている感じがある。

そういう諸行無常の感覚に居るので、どうやら一過性の成功体験というものはあまり恒常的な自信とは成りにくいようだった。

過去の記憶を思い起こして「僕にもあんな時期が有ったのだから次もきっと」という希望や心の糧にすることは出来るが、それは心理操作メソッドであって本質的に自信に変換されたわけではない。

ところで、自信とは他者との比較によって形成されるものなのだろうか。それとも絶対的に「自己」が確立されていることが自信と成りうるのだろうか。

新たな出会いを恐れ始めた

そういう経験を積んでいく内、最近は新たな出会いも要らないのではないかという気持ちになってしまった。

これはもちろん偏見にまみれていることは理解していて、今まで出会った人は悪い人ばかりでなかったということは冒頭で述べたとおり。

だったら関係を続けておけばよかったのに、せめて連絡先くらい残しておけば…という声が聞こえてきそうだが、それはできない。
「連絡するかも」なんて淡い期待に縋るような連絡先ならそもそも要らないだろう。必要がないから現在連絡をとっていないわけで。そして往々にしてその後も連絡はしない。こちらからもしないのでもちろん向こうからも来ない。

本来であればお互いの変化を認め合える、似た歩幅で似たベクトルに進む人間であれば長く続く友人として共に居られたのだろう。

しかし自分が求めるような人物像など当然居ないこともよくよく理解しているのと、そうは言っても誰かとの関係は築いていかないと好い方の変化も得られないだろうということで、この恐れはできれば払拭していかなければならない。。

深い人間関係を築きたかった

深いというのは、悩み・不安・問題まで含めて相互に考え合えることだが、それだけでOKというわけでもないので結局僕のストライクゾーンが狭すぎるという結論になる。

深い人間関係は諦めた方が好いのかもしれない。一時的な関係しか作れない。永くもったことがない。

だって僕が要らないと思えば相手は要らない人。
相手側からも、僕は必ずしも必要ではないと経験則から決めつけている。

永く続くかどうかは結果論、未来の視点から過去を振り返ることでしか測れない。予期は論拠を持たない。
振り返れば多くの人とすれ違いはしたが、ここまでの道を一緒に歩けた人はあまり残らなかった。
経験則(=思い込み)で語るなら、今年もまた誰かに出会って、また消えていくだろう。

消えてゆくなら出会う必要はない。
残る人だけ引き寄せてくれ。