厭世思考

人嫌いの厭世観、思考をまとめたブログ

他人を理解する・他人との距離を測るということについて

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人と人とは理解し合えないということが長きに渡って議論されてきた。これについて思うところを適当に書き散らしてみる。

他人と自分の距離についても触れた。

人と人とは理解し合えない問題

「人と人とは理解し合えないが尊重すべき」だとよく言うが、理解できないということは尊重もしづらいはずなのであまりキレイに成立した論とは言い難いのではないか。

個人的には、尊重よりスルーと言った方が近いと思う。理解できない、受け入れられない事柄は聞かなかったことにする(未知ということに戻しておく)か、路傍の石の1つとして頭の片隅に置き忘れるのが最善なのではという。

「人を理解する」とは?

そもそも人を理解するということ自体、どういう状態を指すのか?

「相手の一部は理解可能、全ては理解し得ない」というのが通説だと思われるが、その一部というのも理解しているかどうか果てしなく疑わしい状態であると自分は思う。
そこには受験問題で国語が苦手な人が国語を感覚で解こうとするような、ムリをした気持ち悪い曖昧さが在るように思われる。

会話して分かったことに加えて、言葉で説明できないテレパシーのような第六感レベルの何かで相手・対象を捉えてしまう、そういう言外に込められた空気を読んで察することまで含めて「理解」と名付けているだけなのではないか?つまり多分に推測が含まれ、あくまで主観的に相手を捉え直した概念を「理解」と便宜的にパッケージしている。

何故なら、普通は人に対して「理解したいから君のことを教えてくれ」と根掘り葉掘り聞くことは基本的にしない・出来ない。(これは研究やディベートなどの目的以外でそれをやると関係性が破綻しかねないという社会的理由に拠るところが大きい)
しかし、相手から言葉という伝達手段を用いて思考を聞き出す以外に我々は相手の本心を知る術を持たない。

つまり原理的に相手の本心を洗いざらい話させる(自白させる)ことが不可能なので、一部すら理解することも不可能になるということだ。(推測が混じる)

現状テレパシーが使えない以上、他人とは会話でコミュニケーションを取るしかない。言葉に本音を乗せなければ、一片の思考すら共有することができない。
例えば猫や犬は鳴き声や仕草で態度を表しており、それは同じ種族の動物に対してはっきり伝わる類型化された範囲限定記号だが、人間はどうやらさらに複雑で、「嘘・偽・虚偽」あるいは「誤解・曲解」という仮面の性質も持ち合わせているために、例え言葉を駆使しても単なる記号ではなくむしろ暗号となりうる節すらある。

物理デバイスによるコミュニケーションは更に理解度が落ちる

直接会うなどして会話する場合でもこのように完全な理解が難しいわけだが、とりわけ現代では、スマホやPCなどでネット回線を介して新規の人間関係を構築し、通常ではあり得ないルートで偶然性の高いコミュニケーションを取る機会が増えていることに注目したい。

物理デバイスを介したコミュニケーションは、知り合う機会に恵まれるというメリットもあれば生命消失の際に居ることすら判らないというデメリットも内包している。

上記の形態ではほとんどが文字・通話といった隠蔽・秘匿性の高いコミュニケーションを行うこととなり、従って相手への理解度は直接会って表情や雰囲気を読み取るよりも更に下位となる。

相手と自分の距離も判らない問題

上記と同様、誰かを理解出来ないなら相手との心理的距離も感覚以外で測ることは出来ない。こちらの方が分かりやすいだろうか。

例えば自分が90%の好意を持っていても、相手が50%くらいだとして、それを表層的な面から見極められない場合はどうすれば?

好意90%の自分が、相手に悟られぬよう表層的には好意50%を出しているとする。そして相手は特に気にせずフツーに好意50%を出している。
上手くいっているかのように見えて実際は全くバランスが取れていないという例だ。

これに対してのなんちゃって解答

1.「50%の彼・彼女が好きだからそれでいい」

という割り切りが出来るケースは一番平和。相手まるごと受け入れている状態なので、バランスが取れていないなりにも恣意的にコントロール出来ている。

コントロール出来ているということは自らの意思で心理的距離を一定に保っているということなので、自分の中では距離感がつかめている状態と言える。

2.「いつまでも相手の50%の反応しか引き出せない」

承認欲求を相手に固執して求めた場合、自分にとってはストレスになる。(相手を憎むか自己嫌悪に陥るかはまた別の話)

これは距離を縮めたいという本心を欺いて「適度な」距離を無理やり保っている状態のため、実際の距離感はとりあえず感覚として分かっていても、恐らく「距離感」という概念に関して混乱することだろう。

下手すれば距離を縮めるために突然強硬手段を取る危険性もあるので注意が必要となる。

相手の評価は常にブラックボックス

上記2.では、相手の評価を60%や70%に引き上げることも不可能ではないということに留意したい。何らかの支点(出来事)と自ら行動を起こすという力点が必要になるが、これが作用する可能性としては0ではない。

でも、結果として評価が上がったかどうかは、やはり本人が話してくれないと判らないままである。人間とはブラックボックスであり、個体1つで精神活動が完結しているものなのだ。思考がこの個体の外に漏れないという秘匿性を持った生物なのである。(動物であれば一生黙っているということはあるまい)

では、相手と自分の距離を把握するにはどのような物差しを使えば好いのか?

解らないから信号を入力して反応を引き出す

人の考えていることなど解らないから、行動を起こして様子を見るのだ。CPUに働きかけて反応・答えを引き出すには、デバイスを通じて信号を入力しなければならない。

ああ、身も蓋もない解答だ。しかしこんな泥臭くて前時代的方法しか取れないほど、人間はまだ進化前なのだろうと思う。だってイルカよろしく超音波も出せない身なのだ。(脳からWi-Fiを飛ばすくらいならそろそろ可能になるかもしれない。生物としての進化を機械で補うことになりそうだ)

したがって解らないことを前提として、自分の中で仮説を立てながら対話を試みて相手の反応を検証するほかない。その結果、相手の態度に変化が見られなければ諦める選択も有効となる。

仮説・検証・結果の考察なしに自分の行動に対する選択を有意義なものにブラッシュアップすることは出来ない。このプロセスを経ないまま当てずっぽうで会話や対応を行って悲惨な結果を招いた他人の例を幾度か散見している。

理解も尊重もしなくていいが、押し付けと破壊もしない

以上、とりとめもなく「他人と自分」について書き散らした。

理解は原理的に不可能、尊重も理解が出来ていなければ恐らく不可能である可能性が高い、なので無視するか片隅にしまっておく程度の対応しか出来ないのではと冒頭で述べた。

その代わり、自分の思想の押し付けや相手の思想の破壊も行わない方がよいというのも1つ付け加えておくべきだろう。

相手の知的レベル・許容度にも依るが、「理解は根本的にし合えない」という理念を持っている人との会話は遥かにラクである。お互いがお互いの受け入れられる部分を愛し、そうでない部分には触れない優しさを持つ。

殺人的・危険思想などはモラル・律に関しては人間社会を営む上でやはり淘汰されて然るべきという例外にはなるが、そうでなければ特段他人を否定して自分の思想で塗り替えることにメリットがほとんどない。

他人は変えられないもの

「他人」は同じ種族であっても別個体だということを強く念押ししたい。加えて、あまりにも人間の精神構造は複雑怪奇である。

バックグラウンド・経験・教養・遺伝子・容姿・文化・家庭環境・学校・人間関係などあまりにも多くの変数要素があり、とても動物の社会とは比べ物にならない。

同じ種族で同じ国で同じ法律や常識の下で生活していても、全く以て同じ記憶・経験・思考を持つ個体は存在しない。(クローン除く)

変数に入れる数が1違うだけで答えが大きく変わる不思議な生き物のため、理解を行うのが量的・質的に難しいということになるのだろう。木の根のように複雑にガッチリ固まっている1つの完結個体なので、他人を意図的に変えるというのはほぼ不可能だと見ていい。(ただし詐欺師などは人の心の動きを動物よろしく法則化して、予め結果を予測した上で行動する特殊な技を持つため可能になるケースもある)

したがって自分を変える。自分の思考の及ぶ範囲が自分限定だからだ。

対話により相手に自分の思考を「伝える」ことは出来ても、相手のアンテナが折れていれば受信は出来ない。自分自身に出来ることは「伝える」という1点のみとなる。

そして他人を理解する前に、自分の複雑怪奇性を理解して分析し尽くすことこそが結局一周廻って「他人に対する」自分を作り上げることになり、他人との距離を測る一助になるだろう。